『 言葉 』
あの、うだるような暑さが嘘みたいに過ぎ去って、季節はもう、秋に変わった。
ふと天を仰いでみたものの、校庭の木々はまだ色づいては居ない。
だけど空は夏場と比べるとずっと高くて、見れば見るほど、吸い込まれそうになる。
「真夏さん、」
立ち止まったまま空を見上げていると、正門の方から穏やかで優しげな声が響いた。
視線をそちらへ向ければ、高級車に寄りかかりながらゆったりと微笑んでいる男の姿が映る。
ブランド物のスーツを身に纏っている男は、正門前に堂々と車を停めているにも関わらず、全く悪びれた様子も無い。
予想だにしなかった男の姿に一瞬面喰らったものの、平然とした態度を心掛けて歩み寄った。
「…いつもの、迎えの人は?」
この男に会えた喜びを押し殺して、わざと不満気に問うと、相手は浮かべていた笑みを少しだけ苦々しいものに変えた。
「たまには、私が迎えに来るのも良いでしょう。……それとも、ご不満ですか?」
残念そうな声音で訊かれても、僕は直ぐに言葉を返さなかった。
男の、嫌味なぐらいに整った顔を一度見上げ、続いて、ワインレッドの車に目を向ける。
魅力的な彼には、この色が良く似合っている気がする。
けれど僕は、この男の元に来てから一度も、そんな言葉を口にした事は無い。
「お前が迎えに来ると、学校の奴らにジロジロ見られて嫌なんだよ」
―――――特に、女にだ。
続く言葉は呑み込んで、下校する生徒達の視線から逃れるように
急ぎ足で男の横を通り過ぎ、僕は後部座席の扉を開けようとした。
けれど、唐突に腕を掴まれる。
「真夏さん、お忘れですか?今日は私が迎えに来たんです。そっちでは無く、助手席へ…お願いします」
低く穏やかな声を響かせて、彼は口元に笑みまで浮かべていたけれど、場の雰囲気は全然和やかなものじゃない。
この男は優しく穏やかで、僕の言う事は何でも聞くかと思いきや、たまに、僕に拒否権を与えない事もある。
だけどそれは、僕がこの男に買われた身なのだから当然のことだ。
「真夏さん、お願いします」
今度は穏やかでは無く、少し強い口調で言葉を掛けられ、身体が微かに震えた。
声を少しでも変えられると、この男の本職を、嫌でも思い出してしまう。
優しいフリをしているけれど、この男は本当は冷酷で暴力的な―――――ヤクザだ。
彼の拳が僕に向けられる事は未だに無いが、ひとを暴力で平伏させる姿は、何度も眼にして来た。
だから、この男に対する恐怖感と云うものが、いつだって心の片隅に存在している。
「分かったから、離して。……痛い、」
責めるように言ってやると、男はすぐさま謝罪の言葉を零して、手を離した。
解放されても、握られていた箇所がまだ熱くて、この男の力強さを再認識させられて………ひどく、胸が熱くなった。
僕の父は、電気機器の製造と販売を主としている株式会社の社長だった。
会社をもっと大きくしようと躍起になっていた父は、焦りすぎた余り、新しい事業に手を出して失敗した。
それから会社は、まるで坂を転がり落ちるように崩壊の危機に面し、倒産寸前にまで追い込まれ
もうお終いだと嘆いていた父の前に、ある日突然、あの男が現れたのだ。
まだ幼い頃、ほんの二年ほど彼は父の秘書を勤めていたものの、ある日いきなりそれを辞めてしまって
何も言わずに僕の前から姿を消してしまった。
彼にひどく懐いていた当時の幼い僕にとって、それはあまりにもショックな出来事で、ひどく傷付いたと云うのに。
何事も無かったみたいに、彼は昔と全く変わらない優しい微笑みを、僕に向けてくれた。
彼が居なくなってから毎日のように泣き喚いていた幼い自分も
彼に恋心を抱いていたんだと気付いてしまった中学時代の自分も、全部、忘れてしまいたかったのに。
二度と会う事は無いんだと思って忘れようとしていたのに、本当に唐突に現れたものだから、頭の中は真っ白になった。
驚く僕なんかお構いなしに、男は父と二人で奥の部屋へ向かって行って……
僕は気になって仕方が無く、部屋の襖に耳を付けて会話を盗み聞きした。
会社が倒産寸前で、わらにも縋りつきたい想いの必死な父を前にしても、彼は軽い口調で会話を続けて
昔のよしみで、多額の資金を出してもいいと冗談のように口にした。
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