言葉…02

 ―――――その代わり真夏さんを、頂きたい。
 会話を盗み聞きしていた僕の耳に入って来た、言葉。
 あの思いも寄らなかった言葉は未だに、強く残っている。
 当時の僕はその言葉の意味が全く理解出来なかったし、父も彼の本意を見抜けなかった。
 仕事で人手が必要だと彼は口にしたものだから、父は疑いも無く納得してしまったし
 僕は僕で、唐突過ぎる彼の出現とその発言に、ひたすら混乱していた。

 その時の情景を思い浮かべて、僕は胸中で溜め息を吐く。
 今日はもう何度も、過去の事を思い出してしまう。
 運転席の男を盗み見てから僕はすぐに顔を窓の方へ向け、あの頃の記憶を、再び脳裏に蘇らせた。



 盗み聞きをしていた僕の前で襖が開かれ、長身の男が目の前に現れて急に腕を掴まれても、逃げる気はしなかった。
 彼はそのまま庭へと僕を連れ込んで、穏やかな微笑を浮かべながらうっすらと口を開いた。
「真夏さん、お久し振りです。大きくなられましたね」
「本当に…高遠(たかとお)、なの?」
「覚えていて下さったんですね。八年ぶり、ですか」

 そう、八年だ。僕は八年間も、高遠の事を忘れようと、ずっと一人であがいていたのに。
 僕の苦労なんて知る由も無く、ゆったりと微笑んでいる高遠に次第に腹が立って、彼の手を振り払った。
「今更、何しに来たんだよ」
 ――――僕を、置いて行ったくせに。
 続く言葉は呑み込んで精一杯高遠を睨みつけてやると、相手は一瞬、眉を顰めた。
 きっと、感動の再会でも想像していたんだろう。
 幼い頃の僕だったら泣き付いていたかも知れないけれど、僕はもうそこまで子供じゃないし
 何より、僕に何も言わずに行方を眩ましたこの男が、許せなかった。

「才崎さんの会社が、倒産寸前だとお聞きしましてね。何か手助け出来ればと、伺った次第です」
「へぇ、じゃあ僕を頂くって、何?単に手助けしたいだけなら、条件なんか持ち出さない筈だろう」
「やはり、聞いてらしたんですね。その盗み聞きする癖は、昔と変わりませんね」
 抑え目な声で可笑しそうに笑う男に、苛立ちが増した。
 本当は再会を素直に喜んで色々な話をしたいのに、黙って姿を消した事がどうしても許せなくて、それを思いだすと余計に腹が立った。
「答える気が無いなら、もう行くよ。バイトが有るんだ」
「お送りしましょうか?」
「要らない。ひとの質問に答えないようなお前と、これ以上喋りたくない」
 子供じみた自分の言葉に少し嫌気がさしたけれど、高遠は気にした様子も無く可笑しそうに笑って、それから急に僕の手を掴んで何かを握らせた。
「答えが知りたいのでしたら、お時間の有る時に此方へ。……お待ちしてます」
 そう言って浮かべた笑みがとても不敵なものに見えて、僕は何も答えずに駆け出してその日、彼から逃げた。

 だけど、その三日後、僕は渡された名刺に書かれてあった住所を訪ねた。
 母は、真夏はまだ未成年なのだから仕事など手伝える筈が無いと、僕を差し出す事にひどく反対していたけれど
 それも時間の問題で、いつかは売られるだろうと予想は出来ていた。
 だから自らの足で、高遠の元へ向かったのだ。
 両親が毎日のように何度も僕の事で言い争って、聞くに堪えなかったのも理由の一つだった。

 だだっ広い部屋に通され、ソファへ促されて腰掛けると、すぐさま怪訝そうな高遠の声が掛かる。
「まだ、才崎さんからお答えを頂いておりませんが?」
「親に売られる前に自分から来たんだ」
「それはそれは…潔いですね」
「…別に。親に売られて惨めな想いをしたくなかっただけだよ。自分の足で売られに来たんだから、親を憎まずに済むし」
 素っ気無く答えて溜め息を一つ零すと、高遠はどうしてか控え目な声で笑い出した。
「やはり、そう云う所は変わられませんね」
「成長していないってこと?」
「いえ、優しくて純粋だって事です」

 ―――――そんな馬鹿な。
 僕は優しくも純粋でも無いし、高遠は一体、僕の何を見ているんだろう。
 惨めな想いをしたくないからだと、ちゃんと言った筈なのにと少し呆れながら、視線を向ける。
 眼に映ったのは、スラックスの隠しに手を入れ、ネクタイまで少し緩めている高遠の姿。
 昔は手なんか入れてなかったし、ネクタイだってきっちり締めていたのに……記憶の中の彼と、全然違う。


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