水槽…3
水槽から目を離さず、嘉島は静かに、蓮の傍らへと腰を下ろす。
その際、スプリングの軋む音が微かに響いたが、蓮が目覚める気配は無い。
水槽の中を優雅に泳ぎ回る魚達に暫くの間目を向けていると、嘉島は度々、蓮が笑った日の事を思い出す。
あの水槽を買ってやった時、蓮は初めて、嬉しそうに笑った。そして少し照れた様子で、礼の言葉まで口にした。
あんなにも素直な、感謝の言葉など久しく聞いていなかった所為で、思わず面食らってしまった自分を思い出し、水槽から視線を逸らす。
熟睡している蓮へ目を向けると手を動かし、相手の柔らかな髪を梳くようにして撫でる。
久し振りの感触を喜び、心地好いとすら思っている自分に気付き、忌々しげに舌打ちを零した。
けれど手の動きは止まる事は無く、壊れ物を扱うように丁寧に、蓮の頬を指先でなぞる。
が、少し眉を寄せた蓮が擽ったそうに身を捩り出すと、あっさりと指を引いて口を開いた。
「…蓮、」
久しぶりにその名前を口にして、強烈な懐かしさを感じる。
たった一ヶ月以上会わなかっただけで何年も離れていた気になり、蓮の身体を強く抱き締めたい衝動が込み上げて来る。
それを押し殺し、再度彼の名を口にした瞬間、相手の瞼がぴくりと動いた。
あまり間を置くことなく、瞼が緩やかに開かれる。
「いい、寝てろ」
名を呼んだだけで熟睡していた相手が起きるとは思わず、嘉島は内心苛立ちながら、蓮の両目を片手で覆う。
その手を蓮はそっと掴んで退け、嘉島の顔を目にすると驚きの表情を浮かべた。
形の良い唇が微かに戦慄き、うっすらと開かれる。
―――嘉島さん。
唇がそう動いたが声は出ず、水槽から響くモーター音だけしか、お互いの耳には届かなかった。
嘉島にはさして驚いた様子も無く、蓮も喋れないことを気にしている色は無いが、二重の双眸は微かに潤んでいる。
「何だ、その眼は。俺が居なくて淋しかったとでも云う気か、」
蓮の瞳を見下ろしながら、嘉島は小馬鹿にしたように笑う。
一ヶ月以上も会えなかったと云うのに、普段通りの冷たい態度をとられ、蓮は悲しげに目を伏せた。
嘉島の身を心から案じていた蓮を、他愛の無い言葉で密かに傷つけたことすら、嘉島は気付かない。
蓮は嘉島の身をずっと案じていた所為で、食欲も失せ、ろくに眠りもしなかった。
抗争が始まったことを嘉島の腹心の田岡から聞かされて以来、無事でいるようにとただ祈るばかりで……嘉島が傷を負わないか不安で、眠れぬ夜を何度も過ごしたと云うのに。
相手は、そんな自分の気持ちなど全く知らないし、気付くことすら無い。
――――でも、仕方の無いことだ。
自分は嘉島にとって、恋人でも無ければ愛人でも無いのだからと、蓮は考える。
ただの抱き人形でしか無いのだと考えて、微かに感じた胸の痛みに眉を寄せた。
が、嘉島の視線を感じ、すぐさまかぶりを振って見せる。
………本当は、淋しかったし、とても心配だった。
だけど、それを嘉島に伝えたところで、何かが変わる訳でも無い。
「だろうな。俺が居ないだけで淋しさなんざ…おまえは感じる筈もねぇよな」
素っ気無く冷たい口調で吐き捨て、嘉島は自嘲気味な笑みを口元に浮かばせる。
目を伏せたままの蓮はそれに気付かず、嘉島に視線を向ける事もなく、胸の痛みにひたすら耐えることしか出来ずに居た。
嘉島からして見れば、目を合わせようとしない蓮の態度は、頑なに自分を拒んでいるように見える。
その上、眉を寄せている彼の表情はどう見ても、嫌がっているようにしか思えない。
徐々に不快な気分になり、忌々しげに大きく舌打ちを零すと、蓮の肩がびくりと跳ねた。
「寝る気がないなら、俺の相手をしろ」
突き放すように冷ややかな声音を放つと、片手を伸ばして蓮の肩を押さえ付け、華奢な身体を組み敷く。
唐突にのしかかって来た嘉島の姿に圧倒され、蓮は瞳を大きく見開いた。
体格差の有る嘉島に迫られると、あまりの迫力に怯え、身体が震えてしまう。
恐怖の色を浮かべ、顔まで反らした蓮の態度に嘉島はひどく苛立った。
畏怖されるのは構わないが、拒むように顔を背けられるのは、癪に障る。
嘉島は一度目を細めた後、不意にぐっと力を込め、蓮の細い肩を更に強く押さえつけた。
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