水槽…8
戻って来てからこの五日間、今までしなかった分を取り戻そうとしているかのように嘉島は、あまり休む間を与えずに蓮を抱いた。
その所為で、身体はまだ怠い。
ようやく解放されてからずっと眠っていた為、時刻が分からず、今は何時なのかと壁時計へ顔を向けた。
「田岡、お前……俺の所に来て何年だ?」
身が竦みそうになるほど鋭く、冷たい声が耳に入り、思わず動きを止める。
微かに身体は震え始め、蓮は気を紛らそうと水槽へ視線を移し、泳ぎ回る魚達をじっと見つめた。
が、耳だけは澄まし、嘉島と田岡の会話に聞き入る。
「十五年と百二十五日になります」
「そうか。それだけ長く居て、まだ甘い考えしてやがるのか…てめぇは。えぇ?田岡…」
鋭く、ドスの利いた声が隣室から響いて、身体がびくりと大きく跳ねた。
嘉島の声はいつだって迫力が桁違いで、声に鋭い狂気を含ませていて、恐ろしくて堪らない。
「も、申し訳有りません…全力で、菅田の居所を突き止めます」
田岡の震えた声が上がった瞬間、蓮の背筋に嫌な寒気が走った。
菅田、と云う名前を今はっきりと耳にして、息苦しささえ感じる。
その名前は、以前嘉島から聞いた事が有る。
菅田の事を何も覚えていないのか、と訊かれたその時も、こんな風に息苦しくなって吐き気が込み上げて来た。
じわじわと込み上げて来る、得体の知れない恐怖感があまりにも辛く、蓮は俯いて目を瞑った。
「失礼します、」
嘉島の恐ろしさを知っている田岡は、恐怖で青褪めたまま深々と頭を下げ、急ぎ足で部屋から出てゆく。
その間も、張り詰めた重い雰囲気は決して和らぐ事は無い。
嘉島は苛立たしげに舌打ちを零した後、少しだけ開け放されている隣室との仕切り戸に目を向けた。
懐から取り出した煙草を口に咥えて火を点け、紫煙を深々と吐き出しながら、眉を顰める。
蓮を保護してから一週間も経たない内に、今度は幹部の人間が一人、菅田の組員に殺された。
田岡を除いた組の人間は皆、菅田に完璧に嘗められていると怒り狂っていたが
これで堂々と菅田を潰し、蓮を安心させる事が出来ると云う歪んだ喜びが、嘉島の内には在った。
楽には殺さずに、死なせてくれと自分から哀願する程苦しめて……蓮にも、その場に居合わせてやろう。
自分を痛めつけた男の、無様にのた打ち回る姿を見せ付けてやろう。
紫煙を燻らせながら、嘉島は口元に不敵な笑みを浮かばせる。
蓮が拉致された時、龍桜会の幹部連中は、たかが玩具が一つ駄目になったぐらいでむきになるなと、大半が口を揃えた。
しかし、今度は状況が違う。嘉島組幹部の一人が、殺られたのだ。
流石に穏健派が多い龍桜会の幹部連中も、菅田を潰す事を許可した。
…………機会が、やっと巡って来た。
いや、自らの手で作り出したと云っても良い。
嘉島は陶器製の灰皿を引き寄せて灰を落としながら、嘉島組幹部の一人を殺した相手の姿を、脳裏に浮かばせた。
馬鹿な男だ。たった三百万握らせただけで、本当に殺しやがった。
しかも自分の親と対立している俺の、言う通りになりやがった。
喉奥で低い笑い声を零し、嘉島は緩やかに目を伏せる。
これ程までに蓮に執着している醜い自分が、あまりにも滑稽に思えて自嘲的な笑みすら浮かぶ。
蓮の為だけに、わざわざ敵の人間を買収して………自分の大切な組員を、殺させた。
これが露見すれば、指詰めや破門どころの騒ぎでは無い。
死んだ方が楽だと云うぐらいに、惨い仕打ちが待っている筈だと考えるが、不思議と後悔の念は抱かなかった。
煙草を灰皿に押し付けて火を消し、ゆっくりと椅子から立ち上がると、隣室へ続く仕切り戸へ足を進ませる。
半開きの扉を開け、薄暗い室内へ入り込むと視線は無意識に、青白く光る水槽へ向かった。
が、ベッド上で上体を起こしている蓮の姿に気付き、口を開く。
「…身体はどうだ。何処か痛むか?」
素っ気無い口調で尋ね、蓮に視線を注ぐものの、嘉島はすぐさま眉を顰めた。
俯き加減の蓮は汗を伝わせ、身体を小刻みに震わせている。
明らかに様子がおかしい相手の元へ足早に近付き、嘉島はベッド上へ静かに腰を下ろした。
「蓮、どうした…寒いのか、」
手を伸ばし、額に浮かんだ汗を指先で拭ってやりながら問うと、蓮は弱々しく首を振る。
自分でも、何故身体が震えるのかも分からず、蓮は戸惑っていた。
暑くも無いのに汗が滲み出て、寒くも無いのに身体が震える。
菅田と云う名前を聞くとどうしてか吐き気が強まって、ひどく息苦しくなる。
何かを思い出せそうで、けれど思い出してはいけないと、心のどこかで警報が鳴っている気がし
徐々に追い詰められた気になった蓮は、咄嗟に手を伸ばして嘉島の腕を掴んだ。
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