水槽…9

「……蓮、」
 今にも泣きそうな表情を見せ、苦しげに此方を見上げて来る蓮の姿に、嘉島は軽く瞠目する。
 込み上げて来る強い衝動に身を任せ、蓮の細い肩を唐突に、いささか乱暴に抱き寄せた。
 蓮が微かに息を呑んだ気配は伝わったが、身じろぐ事無く、大人しく自分の腕の中に収まっている。
 もう一度嘉島が名を呼んだ瞬間、蓮は背に手を回し、しがみつくように抱き返して来た。
 その行動に驚き、目を見開くが、直ぐに普段の冷ややかな表情に戻る。
 けれど表情とは裏腹に、蓮の背中をさする手付きはひどく優しいものだった。

「少し、寝ろ。……傍に居てやる」
 口調は冷たいが、抱き支えながらシーツの上へ倒してくれる嘉島の仕種は、丁寧で優しい。

 嘉島の優しさが稀に出ると胸が熱くなって、縋りつきたくなる。
 泣きついて、好きだと伝えたくなる。

 切ない気持ちが徐々に込み上げて来て、咄嗟に嘉島を見上げたが
 菅田、と云う名前が再び脳裏に浮かび、強い恐れと不安感に捕らわれてしまう。
 ひどく辛そうに見える蓮の姿を前にして、嘉島は焦りの色を浮かべだした。


 もし菅田に拉致された時の記憶が戻ったとしたら……蓮は、どうなるのだろうか。
 死にたいと、願うだろうか。殺してくれと、頼んで来るだろうか。

 ……………心が、病んでしまったりしないだろうか。


 他人の事を、これほど気に掛けた事など初めてだ。
 そこまで蓮を大切に思っている自分に気付き、嘉島は少し戸惑う。
 女すら、今までぞんざいに扱い、こんな感情など抱きはしなかった。
 胸中で苦々しく笑いながら、記憶は戻らない方が良いのかも知れないと考え、身体を離して蓮の上から退こうとする。
 が、離れてゆく感覚に強い不安を抱いた蓮は、縋るように、細い指先を虚空で彷徨わせた。
 その動きがあまりにも弱々しく見え、嘉島はつい、蓮の手を包み込むように握る。
 自分を嫌っている蓮の事だから、手は直ぐに引かれるだろうと予想していたが
 それに反し、蓮は自らも握り返して、きつく手を繋いで来た。

 蓮は自分の事を嫌っていないのでは無いかと、嘉島はふと考える。
 だが、愚かしい理想を素早く掻き消し、淡い期待を抱いた自分を胸中で嘲った。
 そんな事は有る筈が無いと腹の中で否定しながらも、繋いだ手は、離そうとしない。


 弱々しく握って来る手も、僅かに感じ取れる脈も、繋ぐ手の温かさも……
 蓮の何もかもが、今この瞬間、嘉島にとっては安らぎだった。




 菅田を捕らえたとの知らせが、僅か二日後に嘉島の元に届いた。
 待ち侘びた知らせに会心の笑みを浮かべ、電話を切ると寝室へ急ぎ足で向かう。

「蓮、起きろ。出かけるぞ」
 ベッドの上で熟睡していた蓮の肩を掴み、軽く揺すりながら声を掛ける。
 蓮が目を覚ますと素早く離れ、クローゼットを開いて服を取り、ベッド上へ無造作に投げ出した。
 半身を起こした蓮は、傍らへ放り出された服を手にし、小さな欠伸を零す。
 こんな夜更けに一体何処へ行くのかと疑問を抱きながらも、毛布を退け、裸体を曝け出した。

 滑らかで美しい肌には不釣合いな、無数の傷痕が、嘉島の目に映る。
 色の違う、少し盛り上がった痕が所々に刻まれている身体を前にして、嘉島は双眸を細めた。
 蓮の身体に傷痕を残した菅田を想うと、どす黒い感情が腹の奥で渦巻く。

 ――――蓮の目の前で、菅田をなぶり殺してやろう。
 気が狂うほど痛めつけて……決して、楽には死なせない。
 暗い考えを胸中に抱くと、無意識に口元が緩む。

「早くしろ。良いものを見せてやる…」
 上衣に袖を通し始めていた蓮は、嘉島に目を向けた瞬間、ぴたりと手を止めた。
 相手の雰囲気があまりにも冷たすぎて怯え、微かに身体を震わせるが、嘉島は気にした素振りも見せない。

 今の嘉島には菅田を苦しめることしか頭に無く………蓮を気遣う余裕すら、皆無に等しかった。




 蓮を助手席に乗せた嘉島は、菅田の身柄を留置した場所へ向けて車を走らせていた。
 早く菅田を痛めつけてやりたいと思うが、蓮を乗せていては雑な運転は出来ず、逸る気を抑えて一定の速度を保ち続ける。


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