水槽…10
緩やかなカーブを曲がり、山道に入り出すと、蓮は重い瞼を何度か瞬かせた。
嘉島に抱かれた後、疲れ切って熟睡していた所を起こされたのだから、眠気は強く残っている。
普段なら熟睡中の自分を無理に起こす事などしない嘉島の行動に、少し、戸惑いすら覚えていた。
窺うように運転席へ目を向けると、口元を緩めながらハンドルを握っている嘉島の姿が、視界に入る。
明らかに上機嫌な嘉島のその様子に、眠気すら薄れるほど、驚いた。
いつもは無表情か不機嫌な顔をしているかの、どちらかだと云うのに……よほど、いい事が有ったのだろうか。
半ば物珍しげに、蓮は嘉島を観察しだす。
鼻梁の高い精悍な顔立ちは全く隙が無く、切れ長の双眸は鋭さを滲ませ、全身に険悪で野性的な雰囲気を纏っている。
口元を引き締め直すこともせず、正面を向いたままの横顔は魅力的で
相手には一生困らなさそうなほど格好がいいと、蓮は心から思う。
暫く観察していたが、口元を緩めている嘉島の表情を見ていると、徐々に気は落ち始めてゆく。
…………こんな顔をさせるなんて、僕には出来無いことだ。
蓮は目を伏せ、きつく歯を咬む。
一番好きなひとには、笑っていて欲しい。
けれど、そうさせるのは、いつも自分でありたい。
そう願ってしまう自分を浅ましく感じ、嘉島を喜ばすことが出来るものに、羨望すら抱く。
自分には嘉島を喜ばせることなど、出来無い。
それは百も承知で、己の立場を考えれば不可能だと云う事も分かりきっていたのに………いざ実感すると、悔しくて堪らない。
もし嘉島を喜ばせているものが人間だったとしたら、この羨望は嫉みに変わるのだろう。
……………嫌だな。どんどん、醜悪になってゆく。
己の変化に嫌悪感すら抱き、蓮は無意識に小さな溜め息を零す。
すると、車は速度を落として停まり、鋭い双眸が蓮へゆっくりと向けられた。
「…どうした、」
菅田のことしか頭に無かったが、溜め息が聞こえた途端、嘉島の意識は素早く蓮へ向かった。
笑みを消して怪訝そうに眉を顰め、冷ややかな声で尋ねる。
蓮は慌てた様子でかぶりを振り、顔を背けた。
ほんの少しだけでも、嘉島と視線が絡み合うと顔が熱くなって、鼓動が速まる。
重症だと考えながら窓の外へ目を向けるものの、夜景が視界に入ると咄嗟に、車窓へ手を付けた。
いつも窓の無い部屋で過ごしていて、外にもあまり出られない為、久し振りに見た夜景に視線が釘付けになる。
眼下に広がる、橙色や緑色の細やかな光の粒。
それらは派手な光でも無く、落ち着いた雰囲気を持つ夜景に、蓮はつい見とれてしまう。
見せてくれるものとは、これの事だろうかと思うと、胸の奥が徐々に熱くなってゆく。
無性に、嘉島に対して礼を言いたくなり、蓮は躊躇いがちに振り向いた。
嘉島の鋭い双眸と目が合い、脈が速まりだすが、今度は顔を背ける事はせずに口を開く。
――――嘉島さん。
唇が動いたが、自分の声は耳に届かない。
声を出せない事を改めて実感した蓮は、悲しげに眉根を寄せた。
筆記するものも所持していないこの状況では、声が出せなければ、感謝の言葉を伝えることなど出来無い。
「何だ?…今、俺を呼んだだろう。云いたい事が有るなら早く言え、」
しかし嘉島は、蓮が自分の名を呼んだ事を、唇の動きから察した。
沈んだ表情を見せた蓮に向け、傲慢な物言いで声を掛けて急かす。
耳に届いた嘉島の言葉が、声を出さずとも理解って貰えた事があまりにも嬉しく、蓮の表情は自然と緩んだ。
――――ありがとう、ございます。
ほんの少しだけ口元を緩めながら、声の無い、感謝の言葉を告げる。
嬉しそうに微笑むその表情から、嘉島は暫く目が離せなかった。
「……何の、事だ?」
何故感謝されたのかが分からず、少し間を置いた後、怪訝な物言いで問う。
蓮は目を見開き、続いて表情を困惑げなものに変えた。
見せてくれるものが夜景では無かったのだと知り、勘違いしてしまった己を恥じ入りながら、車窓へ目を向ける。
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