水槽…12
「蓮さん、手…引きましょうか?」
不意に聞こえた田岡の言葉に、嘉島は足を止め、眉を顰めて振り向く。
蓮に向けて手を差し伸べている田岡の姿が視界に入ると、舌打ちすら零れる。
直ぐに断ろうとしない蓮に、苛立ちは余計に募った。
「おい蓮、甘えるんじゃねぇよ。男だろう、一人で歩け。…田岡、てめぇもだ。蓮を甘やかすな」
失礼の無い断りかたを思案していた蓮は、憮然とした声が耳に入ると焦り
田岡に一度頭を下げた後、急ぎ足で嘉島のもとへ向かう。
そんな嘉島と蓮の様子に田岡は少し苦笑しながらも、足早に二人の後を追った。
嘉島の広い背中を追うようにして歩き難い林の中を進むと、やがて明るい場所に出る。
周囲の木々に照明が取り付けられ、眩しすぎる光が、一帯を照らしていた。
厳つい面構えをした屈強な男達が数人その場に居たが、嘉島が現れたのを目にすると、皆一様に頭を下げる。
膝に手を当てて腰を屈める者も居る中で、木に縛り付けられている一人の男の姿が在った。
薄汚れた服は所々破れて血が付着し、顔は右側のみ腫れあがっていた。
逃げられぬように折られた所為で片足は異様な方向に曲がり、俯きがちの顔には苦痛の色が浮かんでいる。
しかし嘉島が現れた事に気付くと、獣のように呻き、殺気立った眼差しで睨み付けて来る。
「威勢が良いな。えぇ?菅田よぉ…」
低く笑いながら相手の名を口にした瞬間、嘉島の背後で、蓮は身体を震わせ始めた。
体格の良い嘉島が目の前に居る為、木に縛られている男の姿は全く見えないが……菅田と云う名前を耳にしただけで、息苦しくなる。
「その様子だと、こいつらに手酷くやられたみたいだな。……俺を置いて先に手を出しちまうなんざ、やんちゃ過ぎて手に負えねぇ。」
その場に居た男達へ視線を走らせるが、腹を立てている訳では無い。
男達もそれを察し、口元を緩ませながら比較的軽い口調で謝罪を口にする。
「嘉島……てめぇの抱き人形を攫ったこと、まだ根に持ってやがるのか…あぁ?」
場が少し和み掛けていたものの、菅田が言葉を吐き捨てると、すぐさま険悪な雰囲気に変わった。
笑っていた男達は菅田へ目を向け、顔つきも強面なものになる。
今にも菅田へ飛び掛かりそうな男達を、嘉島は一度だけねめつけて大人しくさせ、口を開いた。
「さあな。だが、うちの組員が一人、あんたの所の人間に殺られてんだ。その返しはきっちりやらねぇと、武闘派嘉島組の名が泣くもんでなぁ…」
「…あ、あれは俺の指示じゃねぇ。下の人間が、勝手にやらかしたことだ」
苦々しげに舌打ちを零して菅田が答えると、嘉島の双眸が細く眇められる。
口元には、うっすらと、冷笑が浮かんだ。
「誰がやった事だろうと、報復は徹底的に行う。……おい、貸せ」
蓮が背後でどれほど青褪めているか気付くことも無く、嘉島は組員の一人に声を掛け、差し出された
匕首を受け取る。
周囲の灯りで鋭く光る刃をじっくりと見据えた後、笑みを深くした。
その凄絶な笑みに、その場に居た男達が一瞬、凍りつく。
青褪めて震え出した菅田のもとへ静かに近付き、嘉島は相手の太腿目掛けて、匕首を振り下ろす。
勢いを付けた匕首の刃を力任せに沈めると、菅田の耳障りな悲鳴が響き渡った。
「楽には殺してやらねぇからなぁ……覚悟しろや、」
喉奥で笑いながら、嘉島は気遅れた様子も見せず、腕を動かす。
刃を引き抜いて再び突き刺し、抉り回して引き抜いては、また突き刺す。
満足気に目を細めて笑う嘉島の姿に、その場に居た組員達も流石に慄然とした。
喚き、暴れる菅田から目を背けた田岡はようやく、顔面蒼白の蓮に気付く。
華奢な身体は震えて、両足はがくがくと揺れ、立っているのがやっとと云った様子だ。
顔色がひどく悪く、額からは汗が滲み出て伝い落ち、二重の双眸は大きく見開かれている。
―――――組長の恐ろしい姿を目にしたからか。
それとも、残酷過ぎる光景を目の当たりにしたからだろうかと考えるが、それにしては何だか様子が違う。
近付こうと田岡が足を進ませた瞬間、大きな悲鳴が響き渡った。
菅田の声では無く、もっと高い、そして悲痛な声。
手をぴたりと止めた嘉島は緩慢な動きで振り返り、地面に膝をついている蓮を目にして、眉を顰めた。
頭を抱えて俯いている蓮の体躯が、異常なほど震えている。
「う…ぅ、あ…嫌…やだ…嫌だ…」
久しく聞いていなかった声が、か細く、切れ切れに零れ落ちる。
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