水槽…14

「いえ……組長、蓮さんの記憶は戻ったのでしょうか?」
「あの様子じゃ、そうだろうな。」
 忌々しげに紫煙を吐き捨てる嘉島へ、蓮の視線が、硝子越しに向けられる。
 車窓に片手を付き、蓮はぼんやりとした表情で嘉島を見上げていた。


 …………ぜんぶ、思い出した。
 拉致された後、菅田の組員に幾度も殴られ、刺され、泣き叫ぶ程の苦痛を受けた。
 最後までされる事は無かったが服を剥ぎ取られて、触られたくない箇所に触られたことも有った。

 思い出しただけで身体が震え出し、蓮は車窓から手を離すと、両手で目元を覆い隠した。
 脳裏に菅田の声や下卑た笑い顔が浮かんで、吐き気すら込み上げて来た瞬間、扉が開く音が耳に入る。

「蓮、」
 穏やかな声音で名を呼ばれると、蓮は手を退け、たどたどしく顔を向けた。
 眉を顰めて此方を窺っている嘉島が、不意に手を伸ばし、頭を優しく撫でて来る。
「おまえはもう、何も心配しなくていい」
 この男のものとは思えないほど優し過ぎる言動に、胸の奥がじわりと熱くなった。
 視界がぼやけて、堪え切れずに、涙が零れる。

 溢れ出して来る想いが、抑えられない。
 好きだと口にして、すべて、曝け出してしまいたい。


「か…しまさ…」
 搾り出すように、少し掠れた声で名を呼ぶと、嘉島は双眸を微かに細めた。
 蓮が何を言おうとしているのか聞く為、一度外へ出て煙草を地面に投げ捨て、足で踏み躙る。
 火が消えたのを確認した後、嘉島は蓮の待つ後部座席へ乗り込もうと進み出した。
 ――――――その刹那。


「嘉島ぁっ!」
 漆黒の闇が広がる林の間から、勢い良く飛び出して来た人影が、叫んだ。


 菅田一家幹部の、残党。
 嘉島がそう判断するよりも先に、銃声が鳴り響く。
 身の竦むような銃声を耳にし、身体を強張らせた蓮は、倒れゆく嘉島の姿を視界に捕らえた。

「組長…ッ!」
 田岡が驚愕の表情を浮かべ、名を呼びながらもすかさず、背広の内側から拳銃を取り出す。
 嘉島を撃った男は、達成感と緊張の緩みで呆然としている。
 逃げる気配も見せない男へ、田岡は躊躇い無く銃口を向け、数発の銃声を轟かせた。

「か、しまさ…嘉島さんっ」
 車から急いで降りた蓮は、倒れた嘉島を何とか抱き起こし、泣きながら呼び掛ける。
 あまりにも唐突過ぎる事態に、蓮の身体は小刻みに震えていた。

「菅田の野郎……いい部下、持ってんじゃねぇか………ざまぁ、ねぇな…」
 口元に、自嘲的な笑みが浮かぶ。
 小さく舌打ちを零して目を移せば、撃たれた箇所からは滲み出るように、血がじわじわと染み渡ってゆく。
 出血が多いなと、ひどく冷静に考えて目を細めた。

「嘉島さ、嘉島さん…どうして、びょ…病院に、救急車を…」
 パニックになった蓮の泣き顔が見えたが、それも徐々に霞んでゆく。
「…約束、守れねぇ、かも…な……」


 ………あの笑った顔が、もう一度、見たかったんだが……。
 無理そうかと考え、手を伸ばすと、蓮の柔らかな髪に指先が触れた。


 ―――――好きだ。誰にも渡したくねぇほど、愛してる。

 口を開くが、零れたのは微かな呻きだけで、胸中に浮かばせた想いは言葉にならない。
 蓮の髪を一撫でした手は、力無く、崩れ落ちた。

 組の息が掛かった病院へ素早く連絡を取っていた田岡は、嘉島が動かなくなると焦燥感に駆られ、舌打ちを零す。
 振り返れば銃声を聞いて駆け付けた組員達が、呆然と立ち尽くしているのが目に映った。

「何してるっ、急げ!」
 蓮を引き剥がしながら怒声混じりに声を掛け、他の組員と共に嘉島を車内へ、慎重に運びこむ。
 組員の一人に、蓮を家へ戻すよう告げた後、田岡は迅速に運転席へと乗り込み…………その場を、後にした。




 嘉島の自宅に戻された蓮はベッド上で膝を抱えながら、青白く光る水槽をじっと眺め続けていた。
 何の連絡も無いまま、あれからもう、九日が過ぎた。
 嘉島が無事かどうかも分からない状況で、蓮は心配でろくに眠れず、食事もあまり口にしていない。


 …………血が、あんなに出ていた。
 思い出しただけで震え上がり、きつく目を瞑りながら嘉島の無事を祈り続ける。
 もしも嘉島が死んでしまったらと考えただけで、強い絶望感が胸中で渦巻く。


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