水槽…16

「か、しま……、かしま…さ、……好き」
 この想いは、言葉は、もう嘉島の耳には届く事は無いのだと考えると、余計に止まらない。
 蓮は泣きながら嘉島の名を呼び、何度も想いを紡ぎ続けた。

 背後で、部屋の扉が物音も立てずに、そっと開く。
 丁寧に扉を開けた男は、蓮の言葉を耳にして一瞬瞠目したが、声を掛ける事はしなかった。
 開け放した扉に寄りかかりながら、男は暫くの間、蓮の頼りない背中を眺める。
 蓮は背後の人物に気付くことも無く、肩を震わせて同じ名を呼び、想いを口にする。

「おい、蓮。その言葉は嬉しいんだが…口にするなら俺の傍で云え」
 暫く黙って様子を見守っていたが男は唐突に、言葉を挟んだ。
 蓮は肩をびくりと跳ねさせたのち、恐る恐る振り向く。
「か、しまさん…?」
 濡れた瞳を大きく見開いて震えた声を零す蓮から、目が離せない。
 先刻の告白を思い出すと、自然に口元が緩む。

「どうした、今日退院すると田岡から聞かなかったのか、」
「な、何も…」
 浮かんだ笑みも消さずに、嘉島は足を進める。
 かぶりを振った蓮のもとへ歩み寄り、床に片膝を付いた。
 その瞬間、蓮は手を伸ばし、縋り付くように抱きついて来た。
 嘉島は一瞬だけ驚いたが、慎重に蓮を抱き上げてベッド上へ乗せてやる。

「か、嘉島さんは……な、亡くなったって…」
 まるで何処にも行かせまいとするかのように、蓮の手が、嘉島の服を掴む。
 無意識なのか定かでは無いが、素直に縋りついて来る蓮の姿は、嘉島にとってあまりにも愛しすぎる。

「おまえ…田岡の野郎に一杯食わせられたな、」
 喉奥で笑いながら、涙の跡が残る蓮の頬を静かに指でなぞった。

 息を呑むほどに整った美しいこの顔も、指先に馴染む柔らかい髪も、
 惹き付けて離さない、魅力的な瞳すら――――すべて、自分のものだ。
 そして、何よりも欲しかった蓮の心が、今、ようやく手に入った。

「ほら、もう一度云ってみろ。一言も聞き逃さねぇからな」
 肩を軽く押しただけで蓮の身体は、シーツに沈んだ。
 華奢な身体を組み敷き、唇が触れそうな距離まで顔を近付けて囁くと、蓮の顔は恥ずかしそうに赤らむ。
「嘉、島さ……」
 躊躇いの色を浮かばせている蓮に、嘉島は焦れたように舌打ちを零した。
 しかし態度とは裏腹に手付きは丁寧で、蓮の服を慎重な動きで脱がしてゆく。

「蓮…早く云わねぇと、犯すぞ」
 白い肌へ唇を滑らせながら、喉奥で低く笑う。
 揶揄と分かるほど口ぶりは軽かったが、蓮は首を横に振り、両手を動かした。
 まるでしがみつくように嘉島の頭を抱き、躊躇いがちに言葉を紡ぐ。

「して、ください。夢じゃないって…嘉島さんの手で、教えてください…」
 頬を染めて告げる姿に、嘉島は危うく理性を飛ばしかけた。
 ただでさえ魅力的な蓮が、恥じらいながらも誘ってくる姿は――――堪らなく、そそる。

「全く…おまえは俺を口説くのが上手いな」
 微苦笑し、嘉島は顔を上げて蓮の瞳を真っ直ぐに見据えた。
 あの時、言葉にならなかった想いが、胸の底から込み上げてくる。
 嘉島の唇が、ゆっくりと開いた。

「………好き、だ」
 初めて口にしてみて、歯切れが悪いなと思案した嘉島は、僅かに視線を逸らした。
 そんな言葉を口にすること自体、柄では無い為、云い慣れていないのだ。
 居心地悪げに眉を顰めた嘉島だったが、蓮の反応が無いことを訝る。
 視線を戻せば、蓮は双眸を見開いたまま口をぽかんとあけていた。
 あまりにも間の抜けた表情に嘉島は堪え切れず、笑みを見せる。

「おまえ…何だその、まぬけな面は、」
 唐突な告白があまりにも衝撃的すぎて呆然としていたが、蓮は慌てて唇を閉ざす。
 可笑しそうに笑う嘉島の姿を前にして、胸の奥が甘く痺れた。

「嘉島、さん……好き…」
 震えた声を零すと、嘉島は更に口元を緩め、満足気に笑った。
 蓮の瞳から、透明な雫が零れて頬を伝う。
 シーツの上へ落ちたそれは、小さな染みをつくった。
 泣き出した蓮を疎む様子も無く、嘉島は指で優しく、濡れた頬を拭ってやる。

 夢みたいだ、と。蓮は思う。
 ずっと伝えられなかった想いが、言葉が。
 今、この瞬間、ようやく伝えることが出来た。
 それだけでも幸せなのに、嘉島が、好きだと云ってくれた。

 …………好きだと、云ってくれた。
 甘い声音でもなく、歯切れの悪い、少し素っ気無い物言いで………それがとても、この男らしくて。
 あまりにも、らしいから、作ったものでは無く本心なのだと分かる。
 嬉しくて、幸せでたまらない。

「ほんとうに、夢みたいです…」
「夢じゃねぇよ。これから嫌ってほど、実感させてやる」
 嘉島の手が素早く滑り落ちて、蓮自身に触れた。
 やんわりと握り、揉み込むように愛撫されて、蓮の熱は弾む息とともに上がってゆく。

 だが、嘉島の背へ回した手が何かに触れると、はっとし、目を見開く。
 服越しに触れたそれが包帯だと察した蓮の脳裏に、身の竦むような銃声と、嘉島の倒れた姿が鮮明に浮かんだ。

 目先の喜びに浸っていた所為で冷静な判断が出来なかった。
 あんなに血が出ていたのだから、九日で完治する筈が無いと、今になって蓮は思う。


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