『 碧空の下 』

 ――――俺の好きな人は、自傷癖と自殺願望が、ある。


 窓紗の隙間から差し込む日差しの眩しさに、目が覚めた。
 目覚ましが鳴る時刻より四十分も早い目覚めに、何だか損をした気になって溜め息を零す。
 ベッドから降り、窓の方へ歩み寄ってから窓紗を一気に開けた。
 その瞬間、視界に飛び込んで来た陽光があまりに眩しくて、少しだけ目が痛む。
 一度瞼を閉じ、何度か瞬きを繰り返した後、再び窓の外へと視線を向ける。

 目に映ったのは、心が躍りそうなぐらい高く、綺麗に澄んだ碧空。
 昨日から強い雨が降り続いていたのが、まるで嘘みたいに、空は晴れ渡っていた。

 濡れた窓硝子を開け、呼吸を二、三度深く繰り返すと、自然と口元が緩んだ。
 秋だと云うのに、それほど肌寒くない気温は、俺からしてみれば快適だ。
 何より空気が澄んでいるし、雨上がりの匂いが、ひどく心地好くも思える。
 こんなに天気が良い日は、大学の講義なんて放り出して、近所の公園で日光浴でもしていたい気分だ。

 高校と違って、大学は単位さえ取れれば教員から文句を言われる事も無いし、講義を欠席した所で親を呼びだされる事も無い。
 大学には特別に会いたい人間も居ないし、仲の良い友人だろうと教員だろうと、結局は他人だとしか思えない。
 人と関わらずにいるのは勿体無い、と良く弟が言っているけれど、俺にして見れば大抵の物事が、どうでもいい事だ。
 教員が昨日唱えていたアインシュタインの相対性理論だろうと、課題に出された粒子Aから見た粒子Bのエネルギー計算だって、どうだっていい。

 ただ何となく生きて、何となく時間を過ごして、何となく明日に向かう。
 俺の人生はそんな風に、適当なものなんだと………
 これから先も誰かに執着する事も無く、自由に生きてゆくんだと、半年前までは思っていた。

 ひょっとしたら、自由と孤独は紙一重なのかも知れないなと思案しながら
 一度振り返り、ベッドの上で眠っている存在へ目を向ける。

 半年前、今日みたいに良く晴れた日に、近所の公園で偶然出会った彼は
 安らかなその寝顔からは、想像の出来無い行動をした。

「……いい天気、だな」
 再び碧空へ目を向けて、ぽつりと呟く。
 こんなにも広い、鮮烈な碧色の下にいると
 自分はあまりにもちっぽけで、無力で――――命なんて、小さくて軽いんじゃないかと、錯覚する。
 あの日も、死と云うものをあまり深く考えてはいなかったなと……半年前の出来事を、再び脳裏に浮かばせた。



 平日の月曜日と金曜日は講義を一つも入れずに、休日にすると決めていた。
 天気が良いのだから近所の公園で日光浴でもしようと考え、携帯型オーディオをジーンズの隠しに突っ込んで外へ出る。
 目的地までは距離が少し有るが、こんな日は徒歩の方が好ましく、空を仰いで鮮やかな碧色を眺めながら、ゆっくりと時間を掛けて歩いた。

 例の公園が近付いても人の声は全く聞こえず、子供が遊んでいる気配すら無い。
 大きく広い公園がもう一つ有るのと、例の公園は周囲の木々で隠れているから
 薄暗くて危険だと近所では噂されている所為で、人の姿は滅多に無い。
 だけど、殺風景で人の来ない閉鎖的な空間は、俺からしてみれば居心地が良いし、世界から見放された場所のようで安心する。
 狭くて小さなこの公園の方が好きな俺は、日光浴をするなら此処でと決めていた。

 狭い入口を通り、薄暗い公園内へ進みだすが、俺の足はぴたりと止まる。
 青いベンチの上に寝転がって、一人の世界に浸ろうと思っていたのに………そこには、既に誰かが横になっていた。
 この公園に人が居ること自体珍しい為に、俺はつい、その相手を観察してしまう。
 着ている服がちゃんとしている辺り、浮浪者って訳でも無さそうだと思案していると、相手は不意に、両手をかざすように上げた。
 片手に握られた鋭く光るものが、反対の腕へ近づけられてゆくのが目に入る。
 それが肌に押し当てられた後、それはとても緩やかに、引かれた。
 鋭利な切っ先が辿った箇所は赤い線が浮き出て、その線からは徐々に、液体が溢れ出す。
 液体の色があまりにも綺麗な赤色をしていた所為で、俺は半ば見惚れるように、その様子を呆然と眺めていた。
 けれど直ぐさま我に返って、良く考える事もせずに相手のもとへと駆け出す。

「なっ、にしてんだよ、アンタっ」
 相手が自傷しようが死のうが、別にどうだっていいけれど
 俺の好きな居場所で死なれるのは、まっぴらご免だった。
 大体、血液は乾くと大抵が汚い色になるし、気に入っている居場所を汚されたくは無い。
 むしり取るようにして、俺は鋭く光るナイフを取り上げ、相手を睨みつけた。

[次]