碧空の下…2
相手はたどたどしく此方を見上げて来たけれど、その瞳はひどく虚ろで、生気が感じられない。
あまりにも頼り無さそうな、何もかもに絶望しているようなその姿を前にして、怒る気は直ぐに失せてしまった。
血が溢れ出ている傷をちらりと見て、かなり痛そうだと考え、顔を少し顰める。
良く見てみるとその腕には、陥没していたり盛り上がっていたり、色の違う傷痕が幾つも有った。
「…痛くないのかよ、大丈夫か?」
見ているこっちが痛くなるほどの、傷だらけの腕を見て思わず尋ねる。
すると相手は驚いたように、一瞬だけ目を見開いた。
「痛く、ない…?……痛いよ、痛い…」
本当に悲しそうに、相手はぽつりと呟いた。
そして、抑えていた何かを吐き出すように、彼は急に泣きだしたのだ。
声を上げる事は無く、ただ静かに涙を零して、ずっと…………泣いていた。
帰る場所が無い、と呟いて。誰にも愛されない、と零して。
もう死んでしまいたいんだと告げた彼を、どうしても放っておけなかった。
他人に対して無関心な自分にしては珍しく、半ば無理矢理アパートに連れて来て、同居を始めた。
だけど相変わらず、半年経った今でも、彼は自傷と自殺未遂を繰り返している。
数ヶ月前には隣のマンションの、五階から飛び降りた事も有った。
ICUに運ばれ、医者をやっている親戚から、極めて危険な状態だと告げられた言葉が
その時、俺は上手く呑み込めなかった。
血が出るまで壁に頭を打ち付けたり、ドアノブにタオルを引っ掛けて、座りながら首を吊ろうとした事だって有る。
でも、何とか、生きている。
世の中には、あっさりと命を落としてゆく人も居ると云うのに
あいつは、ちゃんと―――――生きているんだ。
窓際から離れ、未だに眠ったままの相手のもとへ近付いて、無防備な寝顔を覗き込んだ。
初めて出会った時は気付かなかったけれど、彼は整った顔つきをしている。
稀に二人で出掛けた際、女性の視線が結構向けられる辺り、彼を格好良いと思うのは俺だけじゃ無いらしい。
こいつは俺よりも身長が高いし頭が良いし、性格も、嫌味の無い良い奴だから
さぞかし女性に人気があるだろうと考えて………少し、男として悔しくなった事も有る。
「貴之、そろそろ朝飯作るから起きろよ」
時刻を確認して、相手の身体を揺すりながら声を掛けた。
が、相手は一向に起きる気配を見せず、それ所か寝返りを打って背を向けてしまった。
子供みたいなその態度に半ば呆れ、溜め息を一つ零す。
「なぁ、起きろってば…」
ベッドの上にあがって再度声を掛けるが、左手首に巻かれた真新しい包帯を目にして、胸が痛んだ。
三日前、貴之は浴室で手首を切った。
浴槽の中の湯が真っ赤に染まるぐらい出血が多くて、高校で習った止血法を真面目に聞いていて良かったと、彼が手首を深く切る度に思った。
「…泣いているみたいだ」
ぽつりと独り言を零して、目を伏せる。
貴之が自傷をする度に、俺はそう思う。
溢れる赤色の液体が、いつだって…………俺の目には、紅い涙に見える。
苦痛や辛さを分かって欲しいと、泣きながら訴えているようで――――だから余計に、ひどく哀しい。
死にたがる理由を貴之から聞いた時、俺はみっともなく、泣いた。
温かい言葉とか優しさとか、そう云うものを与えてくれる人達から貰えなかったんだと、貴之は教えてくれた。
本当は、その人達から貰いたかったんだと、苦笑混じりに告げた。
親が実の子供を殴り、痛めつけ、罵る。
その行為は、メディアや書物でしか見掛けた事が無かった所為で
何となく、自分から限り無く離れた、別の世界にあるようなものだと思っていた。
俺には一生関わりなんて無いだろうと思っていた所為で、貴之の言葉を俄かには信じられなかった。
貴之の身体に残った沢山の痣や、傷痕を目にするまでは。
―――――虐待。
彼が受けた仕打ちは、それ以外の、なにものでも無いと思った。
虐待じゃないか、と思わず呟いた俺の前で貴之はかぶりを振り、両親は躾だと言っていたんだ、と教えてくれた。
どれだけ痛めつけられようが、両親は愛する存在で………それは今でも変わらないし
だからこそ、辛くて苦しくて消えてしまいたいんだと、彼はそう言った。
両親に、愛されなくなった自分が悪いんだと……ひどく悲しい事を、口にした。
貴之は、虐待と云う言葉を、一度も口にしなかった。
それが無性に悲しくて、あまりにも理不尽な仕打ちとしか思えなくて、俺は、気付けば泣いていた。
まるでガキみたいに見っともなく声を上げて泣いて、お前が悪い筈無いだろう、と必死で言った。
貴之は………ありがとう、と呟いて
そして少し淋しそうに、笑った。
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