碧空の下…3

 あの淋しそうな笑い顔は、どれだけ時間が経っても鮮明に、脳裏に焼きついている。
 包帯から目を離せず、貴之の笑い顔を思い出していると、彼は本当に唐突に、俺の服を掴んで引っ張って来た。
 細身の体躯からは想像が付かないぐらい強い力で、その腕は易々と俺をベッドの中へ引きずり込む。
 寝ぼけている貴之の、お決まりの行動だから今更驚く事は無い。
 けれど――――。

「陽ちゃん…」
 耳に響いた甘い声音に、背筋がぞくりと震えた。
 こう云う甘い声音を時折出すあたり、寝惚けている貴之はかなり質が悪いなと、少し頭を抱えたくなる。
 寝ぼけている時の貴之は抱き付いて来たり、稀にキスをして来たりもするが、本人はその時のことを全く覚えていないらしい。

「貴之…おまえ、また寝惚けてるだろ。目ぇ覚ませって…」
 呆れた声を掛けるが、貴之は俺の身体をきつく抱き締めたまま、離れようとしない。
 弟に良く抱き付かれていた所為で、同性にこんな行動をされても大して嫌悪感は湧かないけれど、朝飯を作れないのは困る。

 何度か相手の名前を呼んでみるものの、完全に目を覚ます気配は無い。
 一度溜め息を零し、その手を外そうと試みたが、悔しいことに貴之の方が力は強い所為でびくともしなかった。
 俺は、貴之に勝てるものを持ち合わせていない気がする。
「陽ちゃん…陽一、……好きだよ」
 甘えるように首筋へ顔を押し付けて、低い声で囁いて来る貴之の姿は、少し可愛くも思えた。

 貴之の「好き」は、愛してるとか、そんな意味じゃないってことを俺はちゃんと理解している。
 愛でも恋でも無い、単なる、好き。
 そう云う言葉を親に貰えなかった分、きっと、今欲しくて堪らないんだろうと思う。
 大好きだよ、とか。おまえが大事だよ、とか。
 そんな言葉だけで安心するなら何度でも、貴之の為なら、俺はいくらでも言ってやりたい。

「はいはい、俺も好きだよ。だから離せって…」
「陽一…」
「…ッ、」
 名前を呼ばれたかと思うと、急にざらりとした感触が首筋を伝って、肌が粟立った。
 まさか、と考えて身を捩れば、舌で舐められた箇所を今度はきつく吸われる。
「ば…ッ、貴之、おい…!痕付けんなよっ」
「陽ちゃんが欲しい」
 もがいて暴れる俺なんてお構い無しに、舌でなぞっては吸い上げてを何度か繰り返した後、貴之は小さな声でそう囁いた。
 思わず動きを止めるが、続く言葉は聞こえない。

「……何だよ、それ?」
 疑問を口に出してみたけれど、耳に入って来たのは………貴之の、規則正しい寝息だけだった。



 完璧に目を覚ました貴之は俺を抱き締めている事に気付くと、ひどく慌てた様子で、飛びのくように離れた。
 そして、寝ぼけている間、自分が何をしたのか覚えていない癖に何度も謝罪の言葉を口にした。
 そのことを思い出すと、慌てふためいていた貴之の様子が可笑しくて、ほんの少しだけ口元が緩む。
 グリルから焼きアジを二尾取り出して皿に乗せ、カウンターの上へ置いた途端、貴之がキッチンへ入って来た。
「陽ちゃん、ごめん。ごめんね…怒ってる?」
 不安げな声音を零す相手を一瞥した後、茶碗を二つ手にし、炊飯器の蓋を開ける。
 気にするなよと、さっきも言った筈なのに、貴之はここ最近、何度も必死で謝って来るものだから少し不思議に思う。
「別に怒って無いし。洗濯、終わったのか?」
「うん…。あ、洗剤がもう直ぐ無くなりそうだよ」
「んじゃ、大学の帰りがけに買っとく。」
 短く返して椀を手にすると、カウンターの上へ並べた朝食を貴之は何も言わずに、盆の上に乗せて運び出した。
 貴之の、そう云った気の利く行動が、毎度の事ながら嬉しく感じる。
 味噌汁をよそった椀をカウンターの上に置いた後、調理で使ったフライパンを洗おうと流しに下ろした矢先、再び貴之がやって来て俺の名を呼んだ。

「僕が後で洗っておくから、先に食べよう。遅刻しちゃったら大変だし」
「そうだな。じゃあ、頼むよ。……何か俺、貴之に甘えてばっかだな」
 椀も運び出した貴之に向けて苦笑混じりに声を掛けると、相手は少し口端を上げて微笑した。
「甘えられるの、すごく嬉しいよ。必要とされてるみたいで、嬉しいんだ」
 貴之の何気ない一言に、胸の奥が締め付けられるような、切ない気持ちになる。

 こんな、何とも言えない感覚を得るようになったのは、虐待と云う事実を知ってからだ。
 俺には、それをする側の気持ちも、される側の気持ちも分からないから、同情する事が出来無い。
 ただ、ひどく理不尽で、悲しすぎる行為だとしか思えない。
 貴之の気持ちを分かってやれない事に、ほんの少し気落ちしながら食卓につき、一度手を合わせる。


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