碧空の下…5

「……それより兄貴、ヤバイんじゃない?」
 だけど直ぐに笑い声はぴたりと止み、雄一は声を潜めながら言葉を続かせて来る。
 あまりにも小さな声で聞き取り難い為、少し眉を顰めつつ携帯をしまった。
「何が、やばいんだよ?」
「授業休んだり、早退したり遅刻したり……最近更に増えてんじゃん」
 ほんの少し、咎めるような物言いで言葉を返されて、気まずい気分になる。

 …………それは貴之から、あまり目を離していられ無いからだ。
 理由は胸の内だけに浮かばせて黙ったままでいると、雄一は眉を寄せ、此方にじっと視線を注いで来た。
「この前兄貴の友達っぽい奴から、兄貴に間違われて声掛けられたけどさ…授業中、いつもぼーっとしてるんだって?」

 …………それは貴之の事が心配で、あいつの事をしょっちゅう考えているからだ。
 再び胸中に理由を浮かばせるけれど、やはりそれを言葉にする事は出来なかった。
 誰かの事をしょっちゅう考えているなんて俺らしくないし、理由を告げれば、雄一にからかわれそうで嫌だ。
 少し間を置いた後、俺は雄一から目を逸らし、声を掛けて来た奴は誰なのかと話を反らした。
「んー、すっげー馴れ馴れしい奴だったよ。肩とか触って来るしさ、悩み有んなら聞くとか言って来るしさ…いつもあんな風に兄貴に触れてるとしたら、最悪」
「俺の知り合いは大抵、そんなんばっかだろ。それに肩触るなんて、普通だし。お前だって触って来るだろう?」
「他の奴が触んのは駄目。でも俺はいいの、特別。だって兄貴の弟だし」
「何だそれ、屁理屈じゃん。意味わかんねーって」
 呆れた声を上げると雄一は逆に笑いながら、分かんなくて良いんだよと答え、階段の方へ進み出した。
 カフェテリアに行くんだろうと判断して後を追うと、相手は何かを思い出したように声を上げ、唐突に振り返って来た。
「ねー、もしかして彼女でも出来たとか?だから兄貴のアパートに、俺を入れてくんないの?」
「…前に話しただろ、」
 その話題に妙に拘るなと、内心辟易しながらも、素っ気無く答える。
「前にって……ああ、子犬ちゃんか」
 偶然公園で出会った、素性も知らない男と同居しているなんて
 流石に軽々しく話せないものだから、以前、俺は子犬を拾ったと嘘を吐いた事がある。

 人見知りが激しくて、繊細で、全然他人に懐かない小さな子犬。
 同居したばかりの貴之は、まさにそんなタイプだった。
 笑顔なんて全く見せなかったし、どれだけ話し掛けても返答は短いもので、半月経ってからやっと、少しずつ言葉を返してくれるようになった。

「保健所とかに預けてくればいいじゃん。」
 貴之の事を考えていた俺の耳に冷淡な言葉が響いて、ぎょっとした。
 無言で相手に視線を注ぐと、俺が軽く引いているのを察したかのように、雄一は少し苦々しげに笑って冗談だよと呟く。
「でもさぁ…そこまで兄貴に面倒見て貰えるなんて、羨ましいな。俺も子犬になりたいよ」
「馬鹿言うなよ。お前が犬なんかになったら、四六時中見張ってないといけなくなるだろ。」
「世話、じゃなくて見張るって云うのが気になるなー」
 雄一の明るい笑い声を耳にしながら、服の袖を少し捲って腕時計に視線を落とした。
 2限目の講義がもう始まっている時間だったが、昼休みを挟んだ3限目はまだ二時間以上も先で、次第に苛立ちが込み上げた。
 待っている空き時間が、惜しくてたまらない。
 貴之の傍にいる方が、俺にとっては必要な時間で―――それ以外は、すべて無駄な時間に思えて来る。

 貴之は、作っておいた昼飯を、ちゃんと食えるだろうか。
 今、何をしているんだろう。
 ………自殺を、していないだろうか。

 脳裏に浮かんだ不吉な考えに、体温が一気に冷えていった。
 少し震える手で再度携帯を取り出すと、唐突に、その手を雄一に掴まれる。
「何、ひょっとしてもう帰るの?犬は電話に出ないだろ、」
 雄一の鋭い科白に、心底どきりとした。
 昔から何処か鋭い所の有る雄一の事だから、もしかしたら気付いているのかも知れない。


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