碧空の下…6
黙ったまま相手を見据えると彼は急に、にこやかな微笑を浮かべて俺の腕を引っ張った。
そのまま、講義中の為に人気が全く無い、階段の踊り場へと連れていかれる。
「兄貴、俺さ…卒業したら母さんと一緒に、イタリアに行くんだ。本格的にヴァイオリンを学ぶんだよ」
嬉しげにそう語る雄一の笑顔が、ひどく輝いて見え、眩しささえ感じる。
つられて微笑した瞬間、唐突に彼の顔が近付き、軽いキスをされた。
「…父さん、元気?」
唇を少し離し、雄一は何事も無かったかのように尋ねて来たものだから、俺もそれには触れずに、ただ頷いて見せた。
沈黙がほんの少し流れたかと思えば、雄一の腕が、今度は身体に絡みついて来る。
「…何、」
「うん。……取られたくないな、って思ってね。」
掛けられた言葉の意味が理解出来ず、何の話をしているのかと訝る。
すると、雄一は更にきつく、俺の身体を抱き締めて来た。
「何だよ…どうしたんだよ雄一、」
無意識に溜め息を零しながら問うが、雄一は何も答えなかった。
昔から雄一は、自分自身を慰める時には決まって、俺に抱き付いていた。
それは俺も同じで、雄一も俺も、お互いを抱き締めることで、子供の頃から慰め合って来たし
過去に両親が、離婚すると云う話を持ちかけて来た夜も、お互いをきつく抱き締めて眠った。
二人の間では抱き締める行為が当たり前の事になっていたし、雄一に抱き締められることへの嫌悪感は全く湧かないけれど、流石に、大学内では拙いだろうと思う。
だけど、何処と無く陰鬱さの漂う今の雄一を前にすると、彼の身体を押し戻す事も気が引けた。
「兄貴、俺さ…兄貴が羨ましいよ。誰にも縛られないで、自由で…」
ほんの少し間を置いた上で、雄一は不意に、ぽつりと言葉を零した。
――――それは、きっと、孤独なことじゃないだろうか。
脳裏に浮かんだ言葉は口には出さず、呑み込んだ。
「俺は雄一が羨ましい。自分の夢に向かって、真っ直ぐで…俺には真似出来無い人生だ。」
「…何か俺達、無いものねだりみたいだね」
耳元で聞こえた雄一の笑い声が、何処と無く、物悲しいものに思えた。
人はどうして、誰かを羨むんだろう。
時には妬んだり、憎んだりするんだろう。
…………貴之は、誰かを憎んだ事があるんだろうか。
貴之の姿を思い浮かべて瞼を閉じると、雄一の力強い心音が、伝わって来る。
―――――生きて、いる。
はっきりと生を実感して、安堵の息が少しだけ零れ落ちた。
貴之の鼓動をしっかりと聞いた事は無いけれど、きっと、あいつの心音も力強いものなんだろう。
「ねえ、兄貴の授業、代わりに俺が出てあげるからさ。だから、今日は帰っていいよ」
「雄一…」
「双子って、こう云う時便利だよねー」
可笑しそうにけらけら笑いながら言う相手へ、暫く視線を注いでいると、不意にもう一度キスをされる。
だけど、触れる唇には何も感じない。
「…悪い、」
短い言葉を返して離れるが、離れてゆく身体にも、名残惜しさは無い。
その場から走り出し、振り返る事もせずに、階段を勢い良く駆け下りた。
――――生きている。
俺は今、しっかりと呼吸をしているし、この心臓は動いている。
雄一の心音だって力強いし、あの身体は温かかった。
俺は大学を飛び出すように出て、息が切れても、今は止まりたくなくて走り続けた。
自分の心臓の音が、煩いぐらいに、生を主張している。
貴之だって、そうだ。
あの身体には血が流れているし、あいつは、ちゃんと生きている。
――――貴之が死ぬなんて、俺には、考えられない。
「た…ただいま、」
駅から安アパートまで走って戻った所為で、流石に疲れ切っていた俺は扉を開け、呼吸を整えながら搾り出すようにして言葉を紡ぐ。
玄関に置かれた貴之の靴を目にして、家にいるんだと判断するが、いつも返って来る言葉は聞こえない。
全力疾走をして熱くなった身体が、一気に冷えてゆく感覚に襲われた。
慌てて奥の部屋へ向かうと、貴之は………ベッドの上で、横になっていた。
動かない彼の姿を前にして焦る気持ちは強まり、恐る恐る近付くと、相手は小さく呻いた後、寝返りを打った。
――――良かった、生きていた。
単に眠っていただけだと分かって、心から安堵しながら足元へ視線を落とす。
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