碧空の下…7

 そこで漸く、自分が土足だと云うことに気付き、慌ててその場で靴を脱いだ。
 見れば、玄関から今自分が立っている場所まで、床には点々と泥がこびりついている。
 溜め息を零し、この際だから一週間ぶりの掃除でもしようかと思案していると、貴之が上体をゆっくりと起こした。
「あれ、陽ちゃん?帰るの早いね、」
 壁に掛かった時計を見上げた貴之につられて、シンプルなそれに俺も視線を向けた。
 このアパートを出てから、まだ三時間も経っていないのだから……確かに、早い。
 俺は貴之のことを気にし過ぎなんじゃないかと、自分に呆れつつ、洗面所まで向かおうとした。
「あ、陽ちゃん。…おかえり、」
 背中に掛かった声に、胸の奥が、じんわりと温かくなってゆく。
 振り向けば、にこやかに笑っている貴之の姿が、目に映った。

 “おかえり”とか、”ただいま”とか、何て、単純な言葉なんだろう。

 言葉は、誰かに感情や思考を伝える事の出来る、大切なものだ。
 とても必要なもので、他人を癒すこともあれば、逆に、誰かの心を傷つける武器にもなる。
 それは以前から理解していたけれど、同じ言葉でも、それを掛けてくれる相手が違うってだけで、こんなにも強く響くものだとは知らなかった。
「…うん。……ただいま、」
 自分の紡いだ言葉が、更に、心に温もりを与えてくれる。

 日常の、単純で、何気ない言葉のやり取りが
 どれだけ温かいのかと云うことを………俺は貴之と同居してから、初めて、知った。



 大学の講義を一つも入れなかった平日の朝、珍しく電話が何度も鳴り響いた。
 休みの日ぐらい、ゆっくり眠っていたいと思って毛布を頭からかぶり、暫くは無視していたけれど
 十数回ほどで一度切れては、また直ぐに掛かって来る。
 それが何回か繰り返され、取った方が良いんじゃないかと貴之にも言われて、渋々受話器を取った。
「……陽一?」
 女性の、か細く震えた声が響いて、一瞬誰の声か分からなかった。
 記憶を探っていると、受話器の向こう側からすすり泣く声が聞こえて来る。
 両親が口論した後、必ず耳にした泣き声にそっくりだと考えて、漸く、相手は実の母親だと気付いた。
「母さんか。なに、どうかした?」
 もう何年も会っていないのに一体何の用かと、ほんの少し辟易しながら尋ねる。
 受話器の向こう側で、すすり泣く声が、嗚咽のこもったものに変わった。
「母さん?なにか…有ったの、」
「雄一が、雄一がね…」

 雄一が、大学に行く途中で、車にはねられた。
 ……………即死、だった。

 受話器を持つ自分の手が、小刻みに震えて、上手く力が入らない。
 母親の声が遠くなって、その後は何を言っているのか聞き取れなかった。

 死んだ?
 だれが?

 頭が、上手く回らない。強い焦燥感が湧いて、ひどく息苦しい。
 まるで、暗闇の中へ何処までも落ちてゆくような感覚に、支配される。
 今起こっている出来事は、現実なのか夢なのか分からなくなって、ごくりと唾を呑む。
 貴之が心配そうに俺の名を呼んで来たけれど…………俺は、何も答えられなかった。



 雲一つないほど晴れ渡った、高く澄んだ碧空の下で、白い煙はまっすぐに昇ってゆく。
 鮮やかな碧色の中に白煙が溶け込んでゆく様を、俺はぼんやりと眺めていた。

 ……………こんなにも簡単に、ひとは死ぬのか。
 涙も零すことなく、ただじっと白煙を見つめている間、俺にそっくりな弟はいとも簡単に、骨と灰だけになった。

 火葬場に佇む自分は、どうして此処にいるのか。
 次第に訳が分からなくなって、左胸へ手をあてた。

 ―――――イタリアに行くんだ。本格的にヴァイオリンを学ぶんだよ。
 頭の奥で、誰かの、明るい声が響く。
 誰の声だったっけと記憶を探れば、誰かの、物悲しそうな笑い声が響いて消えた。

 ―――――何か俺達、無いものねだりみたいだね。
 聞き覚えのある声が再び頭の奥で響いて、やっと、雄一の声だと気付いた。
 記憶は、まだこんなにも、鮮明だ。
 雄一の笑い顔まで、はっきりと浮かんで来るのだから………あいつが死んだなんて、信じられない。
 まだ雄一は生きているんじゃないかと、微かな希望を抱いた瞬間、肩を叩かれた。

「…雄一、」
「陽一…大丈夫か、」
 無意識に雄一の名を呟いて勢い良く振り向けば、目に映ったのは父親の顔だった。
 何処と無く、憔悴しきった顔をしている相手は、ほんの少し口端を緩めて疲れたように笑った。


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