碧空の下…9

 暫くすると、相手は予想通りに酔い潰れて、縁側の上へ大きく寝そべり始めた。

 …………きっとこの人は、俺と雄一が逆の立場だったとしても同じように、雄一に、俺を重ねたりするんだろう。
 赤ら顔の相手へ視線を向け、そう思案しながら酒を体内へ流し込む。
 深々と溜め息を零して再び空を仰ぎ見ると、不意に、父の声が耳に入った。
 視線を戻せば、相手は寝そべったままだったが、閉じられた瞼からは静かに、涙が零れ落ちてゆく。
「雄一…ごめんな、俺は父親らしい事、一つもしてやれなかった…ごめんな」
 震えた声で呟く父の姿が、ひどく、小さく見えた。
 息子の死を悼んで泣けるだけで十分、父親らしいじゃないかと考えるけれど、彼にとって、それは父親らしい事では無いのだろう。
「ごめんな…雄一、許してくれ…」
 弱々しく繰り返される謝罪の言葉を聞いていると、喉の奥が次第に苦しくなって
 それを掻き消す為に、酒をひたすら、呷り続けた。



 宴が終わった時、俺はひどく酔っていた。
 足元が覚束無い俺に向けて、アパートまで送ると告げた親戚の申し出を、最初はやんわり断ったが
 結局途中まで送って貰い、そこからは一人で帰宅した。
 アパートに辿り着き、扉を開けて玄関に入り込むと、貴之が心配そうに奥の部屋から出て来た。
「陽ちゃん、お帰り。お葬式、無事に終わ……陽ちゃん、顔色、すごく悪いよ」
 貴之の温かな声を耳にした瞬間、何かが切れたように、涙が溢れた。
「弟が、死んだ。雄一が、もういない」
「…陽ちゃん、」
「いないんだ、何処にも、あいつ…」
 そのまま、まるでガキみたいに泣き喚いて部屋中の物に当たり、暴れて、物と云う物を床に散乱させた。

 生きていると、これからもずっと生き続けてゆくんだと思っていた弟は、あっさりと死んだ。
 呆気なく、あいつの人生は終わった。
 雄一は俺と違って大きな夢を描いていたし、それを現実にする為に、誰よりも何よりも輝いていたのに。

「危ないよ、陽ちゃん。陽ちゃんが怪我しちゃうよ」
 優しい声音を放って、貴之は俺の身体を抱き締めてくれた。
 貴之の心音が伝わって来ると、急に、何もかもが恐くなって相手にきつくしがみついた。
 俺はもう成人していて、世間で云えば大人だと云うのに………大人の癖に、みっともなく泣き続けた。

「陽ちゃん、大丈夫だよ。大丈夫だから、今日はゆっくり休もう。ね?」
 穏和な声で宥めながら、貴之はあやすように俺の背を撫でてくれる。
「どうしてそんな、優しいことが出来るんだよ、何でおまえ、そんなに優しいんだよっ」
 けれど俺は、暴れもがいて貴之から離れ、泣きながら怒鳴った。
 自分が何を言っているのかすら、良く分からなくなって、貴之に再び縋りつく。
「死ぬな、死ぬなよ…おまえが、いないと、おまえがいなくなったりしたら、俺……生きて、ゆけない」

 貴之が死ぬのが、すごく恐い。
 貴之を……失いたく、ない。

「…そんなに、僕のことが好き?」
 静かな問いが心地好く耳の奥に響いて、強い安堵感が込み上げて来る。
 答える代わりに俺は、まるで何処にも行かせまいとするかのように、貴之をきつく抱き締めた。
「ありがとう、大丈夫だよ。いなくなったりしないから…陽一、大好きだよ…」
「っん…、」
 そっと囁いた後、貴之は柔らかな口付けをくれた。
 それから、強く抱き返してくれる。

 …………貴之は、泣けて来るほど優しくて、温かい。



 目を覚ますと、視界に入ったのは、ひどく荒れた部屋の光景だった。
 まるで台風が通り過ぎたかのような凄惨な有り様に、思わず唾を呑む。
 酔うまで酒を呑んでアパートに戻った後、暴れたところまでは……何となく、覚えていた。
 ベッドの上で上体を素早く起こした瞬間、頭痛に襲われて思わず眉が寄る。
「陽ちゃん、おはよう。気分はどう?…あ、まだ起きちゃ駄目だよ」
 キッチンの方から顔を出した貴之は、普段と何ら変わらない、優しい声で話し掛けて来た。
 相手を呆然と眺めたまま、何も答えられずにいる俺に、貴之はゆっくりと近付いて額に触れる。
「覚えてる?昨日、お酒呑んでたみたいで酔ってて…しかも、高熱出して倒れちゃったんだよ」
 部屋の惨状には一切触れて来ない、その優しさに、涙が出そうだった。

 もしかしたら俺は、貴之に何かひどい言葉を言ったんじゃないだろうか。
 貴之を、殴ったりしなかっただろうか。
 そう考えると、ひどく恐ろしくて、たまらない。

「貴之……お、俺…俺、おまえに何か、した…?な…殴ったり、とか…」
 震えた声で尋ねると、相手は一瞬だけきょとんとした表情を浮かべた。
 そして直ぐに、柔らかく微笑んでくれる。


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