黒鐡…09

「リン、ちゃんと歩きなさい。」
「…リン?」
 僕に対する呼び方を聞いて、御島が訝しげに僕を見た。
 けれど僕は何も言葉を返さず、足を進めて廊下に続く襖の前に立つ。

 リンと云う呼び名は、娘が欲しかったと何度も云っている母が、いつからか勝手に呼び始めたものだ。
 違う名で呼ばれる事は、僕自身を見ていない事に繋がるから本当は嫌なのだけれど……母の気持ちを考えたら、拒む事は出来無い。
 男の癖にしょっちゅう倒れて高熱を出すような、僕みたいな手間が掛かる子供を持って、母はとても可哀想な人なのだ。
 そんな母の望みが、娘が欲しかったと云うのだから、申し訳無いとしか思えない。
 だから、呼び方で母の気が済むならと思って、初めてリンと呼ばれた日からずっと僕は何も云わなかった。
 でも、それをこの男に一々説明する義理は無いし、吐き気も強まって来た所為で、あまり人と喋りたくも無い。

「私、娘が欲しかったの。産むなら絶対に、女って決めてたから……」
 母は御島に言葉を掛けるのが嬉しいのか、顔を輝かせて僕に対する呼び名の事を、ちゃんと説明していた。
 よっぽどこの御島と云う男が気に入っているのか、一向に帰る気配は無い。
 兼原が居る癖に、一体この男とはどう云う関係なのだと考えながら、僕は二人に背を向けて廊下を眺めた。
 少し暗い廊下が先に続き、奥が突き当たりになっていて左側の曲がり角から、うっすらと灯りが見えた。
 恐らく、あすこから外へと出られるのだろうが……距離が、長すぎるように思える。
 立っているのでさえ辛いのに、あすこまで母の歩調に合わせて歩けるだろうか。
 先に、自分のペースで歩いて外に出てしまった方が、楽なのでは無いだろうか。

 そう考えても熱で鈍くなった頭では上手く答えが出せず、立っているのがあまりにも辛くて、身体を預けるようにして壁に寄りかかった。
 座り込んで休みたくなるのを堪え、上手く働かない頭を片手で押さえる。
 自分の手が冷たいからなのか分からないが、触れた額はとても熱く感じた。
 よもや熱がまた更に上がったのかと考えながら、部屋の方を振り向いて、母を見遣る。
 だけど視線は無意識に、御島の方に向かってしまう。
 視線を向けた先で、黒い双眸と目が合って、僕はひどく驚いた。
 視線なんて感じなかったし、いつから此方を見ていたのだろう。
 ただボーっと御島を眺めていると、相手は途端に眉を寄せ、言葉を交わしている母を置いて此方へ近付いて来る。
 咄嗟に、逃げるように身体を少し動かした瞬間、僕は何かにぶつかった。

「大丈夫かい、鈴くん」
 男の手が僕の肩を掴んで、少し心配そうな声が上から降って来る。
 この声は……兼原だ。
 無意識に顔を上げても、目にした顔は見知らぬもので、けれどそれは僕が兼原の顔を覚えていないからだ。
「…大丈夫、です…」
 自分の声が思いのほか弱々しくて、その上、肩を他人に掴まれていると云うのに僕は何も感じなかった。
 喉の奥が痛くて、吐き気はまた強まったが、近付かないで欲しいと思う気持ちは無い。
「あら、兼原。もう来たの…、早いわね」
 僕に声を掛ける訳でも無く、僕の傍に居る兼原に向けて、母は嬉しそうに言葉を発した。
 その声に遅れながらハッとし、僕は相手から直ぐに離れて軽く頭を下げ、ぶつかってしまった事を謝罪した。

「ええ、迎えに上がりました。…鈴くん、あれぐらいで謝らなくても、大丈夫だよ。」
 優しく穏やかな言葉を掛けられて、僕はたどたどしく、すみませんともう一度謝った。
「美咲さん、鈴くんの具合が悪そうだけれど…どうかなさったのですか?」
 僕の様子を訝ったのか兼原は心配そうに尋ねるけれど、それに対しての母の返答は、気にしなくて良いわと云う素っ気無いものだった。
 僕も同情されるのはまっぴらご免だし、出来るなら兼原には世話になりたくない。
 と云うよりも、僕は誰の世話にもなりたくないのだ。
 今まで迷惑ばかり人に掛けて来たのだから、もう誰の手も煩わせたくなかった。

「リン、私はこれから兼原と出掛けるけど…あんたは一人で帰れるわよね?」
 そんな無茶な、と言ってやりたい。
 何分、今直ぐ座り込んでしまいたいぐらいに身体は怠いし、どんどん具合は悪くなる一方なのだ。
 でも僕は、母の言葉に頷くだけで、誰にも甘えたりはしない。
 僕の所為で苦労を背負って来た母の、唯一の愉しみを、兼原との時間を……元凶の僕が、奪う資格は無いのだから。

「けれど鈴くん、顔色が…」
「…大丈夫です。楽しんでらして下さい」
 他人から見たら、僕の顔色はどれ程、悪いのだろうか。

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