黒鐡…10
そんな事を少しばかり気にしながら、咳が出ないようにと願いつつ、口元を緩めて作り笑いを浮かべ、頭を下げた。
母は、幸せになるべきなのだ。
兼原と一緒に居る時の母は、とても幸せそうだから……僕では、母に迷惑を掛けるばかりだから。
だから頭を下げたのは、母を宜しくと云う意味も込めていた。
納得したのか、僕の身体を少し気に掛けながらも、兼原は直ぐに母とその場を離れて行く。
兼原の前で母は御島に全く興味が無いと云うような態度を現し
御島もまた、同じように振舞っていた所為か、兼原は御島の事をあまり気にした様子も無かった。
二人の姿を見送り、奥の突き当たりを曲がって見えなくなった途端、僕は気が緩んで壁に凭れかかった。
そのまま崩れるように床にへたり込むと咳が何度か出て、口元を抑えながら、これからどうやって帰ろうかと悩んだ。
だけど頭は上手く働かなくて、財布の中に金が有るか確認する事も思い付かなくて――――。
御島の足が、ゆっくりとした足取りで、此方に近付いて来るのが目に入った。
彼が通り過ぎるには僕が此処で座り込んでいては邪魔だろうと
それだけは考える事が出来て、廊下の広さすら忘れて壁に片手をつき、僕はさっさと立ち上がろうとする。
咳き込みながらも急いで立ち上がろうとしたのに、怠い身体は機敏に動けない。
「鈴、無理しなくていい。じっとしてろ、」
通り過ぎるかと思っていた御島は低い声音で言葉を掛け、僕の前まで近付くと床に膝を付いて………
僕の身体に片手を回して抱き寄せ、背中を優しい手付きで撫でてくれた。
そんな行為など、今まで一度もされたことの無い僕にとって、それはとても衝撃的だった。
背中を撫でられて咳が治まり始めると、僕は眼を少し見開きながら御島を見つめた。
だけど御島は何も云わず、いきなり僕を軽々と抱き上げてそのまま部屋に戻り、襖を音も立てずに閉める。
ゆっくりと畳の上に下ろされた僕は口元を抑えながら、小さな咳を何度か繰り返した。
どうしてこの男は、僕に構ってくれるんだろう。
どうしてあんな風に、優しく背中を撫でてくれたんだろう……。
上手く働かない頭の中では、その疑問だけがグルグルと回るだけで、答えは一向に出て来ない。
御島は僕の前で腰を下ろして胡坐をかき、目を細めて口元に柔らかな笑みを浮かべた。
その表情を見て、僕は一瞬だけドキリとした。
母に向けられたものと違って、細められた双眸はあまりにも穏やかで……
優しいとも感じられる笑みと目を細めるような仕種は、精悍で整った顔には、あまりにも似合い過ぎている。
いたたまれなくなって視線を逸らした瞬間、御島は僕をまた抱き寄せた。
胸の中にすっぽりと収まっている事に遅れて気付き、慌てて離れようともがくけれど、力が入らない。
「あの女の為に、あんな一面を見せるなんてな…あんな女に気を利かせるなんて、早々出来ることじゃねぇよ。……鈴、おまえは優しいな」
あの女とか、あんな女とか云っているのは、母の事だろうか。
自分の母を馬鹿にしたような物言いに一瞬腹が立ったけれど、次の瞬間、頭の中は真っ白になった。
唐突に御島は僕の頭をゆっくりと、まるで褒めるように、それはとても優しい手付きで撫でて来たからだ。
―――――――信じられない。
そんな事、誰にもして貰った事など無いのに……。
どうして彼がそんな事をするのか考えようとしたのに、熱の所為で、頭はひどくぼんやりしている。
身体が熱過ぎるのは、きっと熱が上がったからだ。
動悸が速まっているのは、少し息苦しいからだ。
「…くは、僕は…優しく、なんか…」
優しいだなんて言葉は掛けられた事も無くて、初めて掛けられた言葉に狼狽え、弱々しい声が漏れる。
「鈴…お前は、いい子だな。」
折角否定したのに、穏やかな口調で囁かれる。
その言葉が、物言いがどうしてかひどく胸に沁みて、僕は別に悲しくも無いのにどうしてか………涙が、零れた。
頭を撫でられるなんて初めてで、いい子だなんて云われた事も初めてで、こんな風に抱き締められて、優しくされた事なんて今まで無かった。
悲しくも、淋しくも辛くも無いのに、涙は止まらなくて。
御島はそんな僕を見て、弱いとも情けないとも、男なのに泣くなとも云わずに……ただ、頭を撫で続けてくれた。
頭を撫でてくれる感触は、本当に、気持ち好過ぎた。
目眩のように、くらくらする程に気持ちが好くて、何も考えられないぐらいに心地好くて、意識が朦朧として来る。
御島の胸に寄りかかるように顔をつけて、僕は緩やかに眼を閉じた。
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