黒鐡…12
「…気持ちが好いです。医薬品の匂いもしないし、」
病院や学校の保健室でしかベッドを使う機会が無かった僕にとって、医薬品の匂いが漂わない室内で、ベッドの上で寝たのも初めてだ。
それが少しばかり嬉しかったが、たかがそんな事ぐらいで喜ぶ自分の子供じみた一面が、直ぐに恥ずかしく思える。
「随分細い身体だと思ってはいたが……おまえ、身体が弱いのか、」
そうですと答えれば、相手は同情して来るのでは無いかと考えた僕は、相手の問いに否定も肯定もしなかった。
けれど沈黙が肯定の意味だと御島は捕らえたようで、ただ一言、そうかと短い言葉を口にした。
名前以外何も知らないこの男に、自分が病弱な事を云いたくも無かったし、同情されるのはまっぴらご免だ。
だが御島の瞳には同情の色は浮かんでいなくて、その事に少しばかり安堵したけれど、自分の弱い部分を知られた事に気分が沈む。
思わず目を伏せ掛けた途端直ぐに名前を呼ばれ、目線をゆっくりと上げれば、威圧感の有る黒い双眸と目が合った。
一瞬怯み掛けた僕は、母以外の人に名を呼び捨てにされたのも、初めてだった事に気付く。
祖母は僕の事をいつも、あなたとか、あれとか呼んでいたし、祖父や親戚だって僕の名を呼んだり呼び捨てにした事は無い。
この男がしてくれる事は、僕にとって初めてな事が多すぎる気がする。
でもそれは僕が他人とは関わらず、ずっと狭い世界に居たからだろう。
「人と話すのに、慣れても居なさそうだな。近くに寄られるのは嫌いか、」
御島の問いに、心臓を鷲掴みにされたかのように、ドキリとした。
まるで全て見透かされているみたいで、嫌になる。
どうして分かるのかと言いたげな眼差しを向ける僕を、御島は冷ややかに見下ろしているだけで――――――僕はその目がとても、恐かった。
自分の嫌いな部分も、弱い部分も全て見透かして、僕の何もかもを捕らえてしまうような、御島の双眸が恐くて仕方無いのに、目を逸らす事が出来無い。
「何をそんなに怯えてやがる。そんな目で見られると、堪らなくなるだろう、」
何が堪らないのか分からず、僕は震える身体を心中で叱咤しながら、あの双眸を見つめ続ける。
すると御島は手を動かして唐突に、僕の頬をそっと撫でて来た。
それはまるで壊れ物を扱うかのような丁寧な触り方で、他人に触れられる不快感を直ぐには感じられなかった。
「俺の事を忘れているんだと知った時には、どうしてやろうかと思ったが……」
くくっと、冷たく低い声で笑い、御島はいきなり僕の顎を掴んで固定した。
御島の言動に、半ば呆然としていた僕の脳裏に、意識が途切れる寸前に彼が云った言葉が、一瞬だけ浮かんだ。
昔と変わらない、と彼は確かに云って――――。
そこまで考えた途端、気絶する寸前に額に何かが触れた感触と同じ感触を、僕は今、同じ場所に感じた。
御島が顔をゆっくりと離して、それがキスと呼べるのか分からないけれど、額にキスされたのだと遅れながら理解出来た。
理解した途端、熱が急激に上がって、この感覚は怒りなのだと思いながら逃げるように身を捩る。
けれど顎は掴まれて固定されているし、両腕も抑え付けられている所為で、逃げる事も叶わなかった。
「逃がすかよ。あのガキが、こんなに美人になっているなんて反則だろう、」
あのガキ、とはやはり僕の事だろうか。
ガキと云うからには、幼い頃に会ったのだろうか。
疑問を頭に浮かべていると、御島は急に顔を近付けて来て、それに一瞬怯んだ僕の唇に冷たく柔らかいものが触れた。
暫くの間何をされたのか理解出来ずに硬直し、今のは何だろうと考えながら、間近の御島から目が離せない。
ようやく、触れたものが相手の唇だと理解した時には、彼は既に唇を離していた。
目を見開いたまま何も云えない僕を見下ろして、御島はひどく愉しそうに、口元を緩めた。
「初々しい反応だな、」
「な…っ、」
馬鹿にされたように感じた僕は一気に我に返り、それと同時に腹立たしくなる。
こんなに、他人に対して憤りを覚えたのは、初めてだ。
「あ、あなたは一体、何のつもり…ンっ…!」
怒りに任せて発した言葉は、再度重なって来た御島の唇で掻き消された。
今度は噛み合わせが深くなり、御島は僕の唇を吸い上げて、軽く噛んで来る。
驚きで一瞬肩を跳ねさせた僕には構わず、御島は柔らかな舌を侵入させた。
そこでようやく僕は、これはキスなのだと云う事に、今更ながら気付いた。
キスなんて他人にされた事も無く、驚きが強い所為なのか分からないけれど、嫌悪感も感じない。
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