黒鐡…15

「な、なん、なんですかっ」
 ぎょっとして男の胸を押し戻そうとするけれど、やはり非力な僕では、彼を押し戻す事なんて出来やしない。
 嫌がって身を捩るといきなり首筋を舐められ、僕は情けなくも、ひっ…と悲鳴を漏らしてしまう。
 そんな僕には構わず、御島は僕の首筋に唇を押し当ててきつく吸い上げて来た。
「ぅ、あ…っ」
 微かな痛みを感じた僕は、嫌悪感より何よりも、身体が震える程の恐怖を感じる。
 怯える僕の姿にくくっと笑って、御島は首筋に軽く歯まで立てて来たものだから
 恐怖が強まった僕はさっきより大きな悲鳴を上げて、逃げるように必死に腰を引く。
「いや…嫌だっ、やめてくださいっ、恐いッ」
 こんな事をされたことなんて無いし、御島の雰囲気があまりにも黒々しくて獰猛で、このまま噛み殺されてしまうのでは無いかと、強い畏怖が僕を襲う。
 確かライオンはいつも、たった一咬みで獲物を殺す生き物なのだと、
 どうしてかそんな考えだけが頭の中でぐるぐると回り、それが一層恐れを強める。

「……ああ、男は恐い生き物だ。それをじっくりと教えてやる、」
 御島より恐い人間など居るものかと考えた僕を、御島はシーツの上にゆっくりと押し倒した。
 覆い被さって来た御島の威圧感に緊張の所為か、口の中が渇いて胸の辺りがむかむかし、次第にそれは強まってしまう。
 咳が出そうだと考えた瞬間、直ぐに手で口元を覆い、僕は顔を反らして何度か咳き込んだ。
 すると御島は何も云わず、あの冷たくて気持ちの好い手を、僕の額に当てて来た。
 息を呑み、驚く僕とは裏腹に、御島はどうしてか眉を寄せて舌打ちを零す。

「拙いな…また熱が上がっている。悪かった、大人しくさせておくんだったな」
 少し心配そうに顔を覗き込まれ、その上謝罪された僕は、否定するように首を一度だけ横に振った。
 御島が変な事をしなければ、僕は逃げたりも暴れたりもしなかったけれど、そんな風に謝られてしまったら、僕が勝手に暴れたから悪いのだと考えてしまう。
「すみません…僕、あの…少し休めば、よくなりますから…」
 思えば、僕はこの男に迷惑ばかり掛け、弱い所ばかり見せている気がした。
 名前しか知らない、家に戻ればもう二度と会わないであろう他人に、だ。

「……身体が弱いのも、色々と面倒だな」
 軽い溜め息を吐かれてそう云われたけれど、僕は傷付くことは無かった。
 僕は誰かの言葉や行動に傷付いた事なんて無いし、面倒だとか、迷惑だとか、そんな言葉は云われ慣れている。
 だから僕は表情を変える事無く、迷惑を掛けた事に対して、すみませんともう一度謝罪を口にした。
 …………家に戻れば、またあの静かな、一人っきりの時間が始まる。
 それまでは、御島に迷惑を掛けないように注意していよう。
 僕は出来るならもう………誰とも、関わりたくは無いのだから。



 結局熱は一日では下がらず、大事を取って数日間御島の世話になった。
 修学旅行すら、身体が弱い為に行けなかった僕にとって、外泊した事は夢のようだった。
 その上御島の家は広くて、浴室だって一人で入るには大き過ぎる程のものだった。
 食事もとても豪勢で、母が料理をしない上、外食を僕と共にする事も無い為、出された料理は食べた事も見た事も無い物ばかりだった。
 食の細い僕は、少ししか食べる事は出来なかったけれど、御島はそんな僕を叱る事もしなければ呆れた様子も見せなかった。
 喜びを通り越して逆に、申し訳なく思ってしまった僕に、彼は必要なものが有れば何でも云えととても問題の有る発言を何度も零した。
 こんなに良くして貰っても、何もお返し出来無いと僕が告げても、御島はただ愉しそうに目を細めて、そんな物は必要ないと返したのだ。
 その言葉に納得が行かなかった僕を抱き寄せて、御島は唇を重ねて来て………今はこれだけで十分だと、そう云って柔らかく微笑った。
 僕は御島と云う男が、全く理解出来ない。
 考えて見れば、他人を理解出来ないと思ったのも初めてだ。
 だって僕は………理解出来るとか、出来無いとか思えるまで、人と関わった事なんて無いもの。


 僕の初めての外泊は四日間となり、その間御島は自分の事を語らずに僕に質問ばかりしたし、抱き締めたり触れて来たり、キスだって何度もして来た。
 僕がどれだけ嫌がっても、気にしていないように御島は強引に唇を重ねて……けれど、いつもあの男がするキスは優しいものだった。
 御島について尋ねたり、どうして優しくしたりキスをしたりするのか、問うた事は無い。
 何かを尋ねれば、それだけ言葉がより多く、交わされる事になるからだ。

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