黒鐡…17

「…良く来るのか、」
「え?」
 御島の真面目な表情から目を逸らせず、じっと見ていた所為で、言葉の意味が上手く理解出来ない。
「おまえがぶつかった後、おまえの肩を掴んだ奴だ」
 思わず訊き返そうと口を開きかけるが、それより先に御島が言葉を放った。
 そんな人は居ただろうかと記憶を探ると、不意に兼原の存在が頭に浮かぶ。
「兼原さんの事ですか?」
「名前はどうだって良い、」
 思い出したのに、素っ気無い言葉を返されて僕はいささか、むっとする。
 あの時見た筈の兼原の顔は、数日前の事なのに思い出せないし、彼が何を云ったかすら記憶に無く、どうだって良い。
「母が居ない時は、来ませんけど…」
 記憶を探りながら、僕は小さな声で答えたけれど、実際は分からない。
 僕は離れから全くと云って良いほど出ないし、家の中に兼原が居たとしても、僕はそちらを見向きもしないだろう。

「そうか。まあいい、鈴…あいつには近付くな」
 御島に云われなくとも、自分から兼原に近付くような真似はしないし、他人と関わる事を避けている僕は
 母の恋人の兼原ですら関わり合いになりたくないと思っている。
 ……だけど。
 どうしてそんな事を御島が云うのかが理解出来ず、僕は少しだけ俯き、怪訝そうに眉を寄せた。
 すると急に顎を掬い上げられて、あの力強い双眸と目が合う。

 鋭くて、冷たくて、ギラついていて恐いから、この目は好きじゃない。
 縛り付けるように僕を見つめて、放してくれない双眸は……まるで吸い込まれそうな瞳だから、恐くて仕方が無い。
 双眸から視線を逸らせずにいると、御島の顔がゆっくりと近付いて来て、焦った僕は慌てて彼の胸に両手を付いた。
「ま、待ってください、母が…」
「安心しろ。あの女は稽古だろう、」
「どうして…んっ」
 どうして知っているのかと尋ねようとしたのに、唇に触れた冷たく柔らかい感触に、一瞬頭の中が真っ白になる。
 それが口付けだと気付いた時には、相手は既に、舌を侵入させていた。
 思わず逃げようと動いた舌はいとも簡単に絡め取られ、彼は目を細めてクッと笑うと、堪能するように口腔を探る。
「ん…ぅ、ん…っ」
 執拗にきつく吸われ、あやすように背中を撫でられるから、逃げようなんて気は結局薄れてしまう。
 息が弾み、徐々に体温が上がり始めた頃、御島はようやく解放してくれる。
 少し放心しながら相手を見上げれば、御島はとても満足そうに、口の片端を上げる。
「たまらねぇな、鈴。今直ぐにでも、滅茶苦茶にしてやりたくなる」
 舌打ちを零しながら、苛立ったように云われるけれど、僕はまだ放心している所為で上手く言葉が呑み込めない。
 僕のブレザーの襟に付いている学年組章を、指で緩やかになぞった御島は、苦々しそうな表情を浮かべて軽い溜め息を漏らした。
 どうしてそんな表情をするのか分からず、僕はただ、不思議そうに相手を見上げる。

「今は三年か。おまえが高校を卒業するまでは耐えるつもりだが……長いな、」
 三年とは…御島は一体、何を云っているんだろう。
 僕は御島が指でなぞっている物を視線で追って、そこでようやく理解した。
 御島は、僕がまだ高校生だと思っているのだ。
 完璧そうで、何もかも知っていそうな彼が、意外な所で抜けているのを目の当たりにして、笑えるよりも安堵した。
 僕の歳をろくに覚えていない父の元に居たのなら、正確な年齢を知らないのも無理は無い。
 人違いの可能性が高いけれど、御島が昔僕と会っていたとしても、僕は幼い頃から他人に自分の年齢を口にしなかったのも有る。
 それと云うのも近所の人や母の知り合いに訊かれても、常に傍にいた母が、曖昧に答えていたからだ。
 母は若い内に僕を産んだから、それを他人から変に思われない為に、わざと僕の本当の歳を口にしなかった。
 世間体を兎に角気にする女性だったから、仕方が無いのだろう。
 でも僕はもう十九歳で、高校なんて卒業している。
 それなのに、高校生としてこの男に扱われていると云う事は、何だか居た堪れなかった。

「あ、あの…御島さ…」
 訂正しようと口を開くが、言葉の途中で携帯の着信音が、御島の懐から響く。
 煩い音が大嫌いな僕は迷惑そうな表情をし、つい御島を嫌そうに見てしまうけれど、彼は僕の視線なんて気にしていないかのように携帯を取り出した。
「悪いな、鈴。急用だ…」
 携帯の画面を確認した御島は、僕の前髪を掻き上げるようにして頭を撫で、残念そうに囁く。

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