黒鐡…18

 彼の顔が近付いて来て、反射的に逃げようとするけれど、御島は構わずに僕の額に口付け、 直ぐに背を向けて扉を開け
 携帯の通話ボタンを押して耳に当てながら出て行き、あっさりと扉を閉めた。
 物音も立てず、静かに閉めた御島の仕種に驚き、僕は無意識の内に先程キスをされた額に手を当て、閉ざされた扉を呆然と眺めていた。
 まだ外に居るのか、微かに向こう側から御島の声がして……無意識に扉に耳を付け、盗み聞きのような事をしてしまった。
 直ぐに自分の異常な行動に驚き、恥じて、慌てて耳を離そうとした。
 けれど。

「狩野さん、お久し振りです。聞きましたよ、出所なさったそうですね」
 御島の丁寧な言葉を耳にして、身体がひどく震えた。
 今さっき僕と話していた人と同じ人物かと疑うほどに、冷たく鋭い口調だった。
 僕は今まで、御島の事を恐いと思っていたけれど、外で喋っている声を聞いてしまったら穏やかな方だったのだと思わずにはいられない。
 御島は僕に話しかける時、丁寧では無いけれど穏やかな喋り方をするし
 度々感じていた背筋が凍るような威圧感も、震える程の黒々しい雰囲気も、柔らかくなるのに……
 今は近くに居るだけで、肌をじりじりと焼かれるような、そんな近寄りがたい存在になっている。

「そこまで云って頂けると此方としても、てっぺんをとった甲斐が有ります。はい、近々伺いますんで…」
 声は次第に遠くなって、僕は零れそうな悲鳴を抑えようと両手で口元を覆っていた。
 息が詰まって、上手く呼吸が出来無い。
 身体はどうしようも無い程にがくがくと震えて、歯も上手く噛み合わずに震え、まるで腰が抜けたように僕はその場にへたり込んだ。
 冷や汗が肌を伝うのを感じながら、自分の身体に両腕を回して、俯く。
 あんな声を傍で出されたら、僕はきっと、あまりの恐怖で気絶してしまうかもしれない。
 それ程に、御島は何か、どす黒いものを抱えている気がする。

 御島が云っていた言葉が何度も頭を巡って、てっぺんをとったとかは良く分からないけれど……出所の意味は、分かる。
 けれど恐怖で上手く頭が働かず、何度か深呼吸をしながら、僕は御島のことばかり考えている事に今更気付いた。
 言葉を交わす時は母の目さえ見れないのに、御島が相手だと見る事も出来た。
 いつの間にか御島が記憶に鮮明に残っている事に戸惑い、これでは御島の事を忘れられなくなってしまうと、焦燥感に駆られる。

 もう御島とは二度と、会う事は無いんだ。
 だから早く忘れて、またいつものように一人で日々を過ごして―――――。
 そう考えた瞬間、何故か一瞬だけ、締め付けるような痛みを胸に感じた。



 落ち着ける場所に戻り、いつもと同じように離れで時間を過ごし、御島と別れてから二日経った朝、見たくない夢を見た所為で僕の気分は最悪だった。
 母が兼原と話しているだけの、特に変わりの無い夢だけれど、母はとても幸せそうで僕は叫ぶように彼女を呼ぶ。
 だけど彼女は僕に気付くことすらせず、ただ幸せそうに笑うだけで………
 あんなに幸せそうな顔は、僕の前では一度だって浮かべなかったし、笑顔すら僕に対して向けてはくれなかった。

 ―――――それでも僕は、母が幸せならそれで良かった。
 母は兼原と居れば、幸せなのだ。
 僕など必要としていないのだと考えて、僕は遣る瀬無い気持ちのまま夢から覚め、一人っきりの目覚めにいつだって、少し物悲しい気持ちになる。
 目覚めてから暫くの間ぼんやりと過ごし、やがて身なりを整えるとろくに食事もせず
 気を紛らわすように本を読み耽るが、夢の内容が鮮明に頭の中に残り、胸の辺りがむかむかする。
 学校を卒業して家で大人しくし始めた頃から、母はあまり家に戻らず、僕はもう何年も母の手料理を食べていない。
 淋しくないと云えばそれは嘘になるけれど、僕は誰にも、母にさえ淋しいと云う言葉を漏らした事は無い。
 淋しいと口にした所で、どうにもならないって事を、僕は重々承知している。
 むしろ、口にすると余計に虚しさが強まるだけなんだと、僕はもう、随分幼い頃に学習した。

 読み耽っていた本を閉じ、母も帰って来ないのだから気分転換に図書館にでも向かおうかと考え、立ち上がる。
 上着と返却する本を手にすると、僕は襖を開けて廊下へと出た。
 あの夢を見た日に、家に籠もっていれば余計に気分は沈むし、夕方までに家に戻れば母に見つかることも怒られることも無いだろう。
 歩き進んで母屋の玄関に向かい、靴を履こうと身を屈めた瞬間、唐突に目の前の扉が開かれた。

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