黒鐡…19

「鍵が掛かっていないのか…無用心だな、」
 てっきり鍵が掛かっているとばかり思っていたのに、いとも簡単に開いた扉に、僕はひどく驚いた。
 この時間、母は稽古に向かっている筈で……と云う事は、普段僕が家に居る時も母は鍵を掛けずに出かけていたのだろうか。
 そう思うと、良く今まで強盗などが入らなかったなと考えてしまう。
 入っていたとしても、僕はあの離れからあまり出ようとしないのだから、気付かないかも知れないけれど。
 鍵が掛かっていなかったことにも驚いたが、何よりも男の姿にぎょっとし、当然のように中まで入って来たことに瞠目してしまう。

 勝手に家に上がり込んで来るなんて、どんな神経をしているんだろう。
 責めるように暫くじっと御島を見上げていると、彼は愉しそうに目を細めて喉奥で低く笑い、僕の方へと手を伸ばして来た。
「気分はどうだ、鈴。何処も悪くねぇか、」
 頬に大きな手を添えられ驚いて身を引こうとするけれど、それよりも御島の問いが早かった為、僕は逃げるタイミングを見失った。
 その上、御島の穏やかで優しい口調に、つい拍子抜けしてしまう。
 以前、彼が電話で喋っていた口調と比べると、あまりにも別人のように思えたからだ。
 だから、あまりにも拍子抜けした所為で僕は、御島が勝手に家に入り込んで来た事を責める気が無くなってしまった。

「は、はい…変わりは有りません」
 小さな声で答えると、御島は僕の足元に一度目を遣り、何処か行くのかと尋ねて来た。
 その問いに僕は首を縦にも横にも振れず、気まずい沈黙を保つ。
 結果的に通話をしていた御島の言葉を盗み聞きしてしまったし、もう絶対に会わないと思っていた相手の
 唐突な訪問も合わさって、僕は直ぐにでもこの場から逃げたい一心だった。
「行きたい所が有るなら、連れて行ってやる。遠慮するな、」
 御島はそう云うと腕を掴んで来て、僕は全身に言いようのない緊張が走るのを感じた。
 あの声を聞いてしまってから、御島がとてつも無く恐く思えて、仕方がない。
「鈴、……どうした、」
 訝るように御島は眉を寄せて、自然と俯いてしまった僕は力無くかぶりを振った。
 すると御島は舌打ちを零し、本当に唐突に、僕の身体を抱き上げて来た。
「み、御島さん、な…何を…」
「おまえの部屋は何処だ、」
「え…、」
 相手の言動に戸惑い、どうして僕の部屋にこの男を案内しなければいけないのかと考えるが
 僕を抱えたまま御島は返答を待つかのように、此方を見据えて来る。
 案内しなければ降ろして貰えなさそうで、もう一度念を押すように何処だと尋ねられた僕は
 その迫力に押されてしまい、結局渋々と部屋に案内する羽目になった。
 降ろしてくれと何度か口にしたが、彼は何も答えてはくれない。
 僕が案内するままに進んで渡り廊下を通り、僕の部屋が離れにあると知ると、不機嫌そうに少しばかり眉を顰めた。
 一体何がそんなに気に食わないのか理解出来ず、僕は彼を怪訝に思ったけれど、相手は何も云わない。
 部屋に辿り着くと、御島はとても物珍しそうに室内を見回し、ようやく僕を畳の上へそっと下ろしてくれた。
 御島は僕を、丁寧に優しく扱ってくれる。
 母親にすらそんな扱いを受けた事の無い僕は、内から込み上げて来るような、何だか良く分からない温かい感覚に何度も戸惑った。

「随分、殺風景だな」
 彼の云う通りこの部屋には、隅に本棚と鏡付きの箪笥が有る程度で殺風景だ。
 肯定するように頷き、いつ帰ってくれるのかと言いたげに相手を見上げると、
 御島は僕の目の前で腰を降ろして胡坐を掻き、口元に少し冷たい笑みを浮かべて見せた。

 その笑みは、とても好きにはなれない。
 僕の全てを見透かして、蔑んでいるように思えるから。
 居た堪れなくなって、早く帰って欲しいと願いながらも、そんな失礼な事は口には出来無いしで僕はただ黙り込むしか出来なかった。

「どうした鈴、何をそんなに緊張してやがる、」
 ――――――緊張?
 掛けられた言葉に軽く首を傾げ、僕は緊張しているのだろうかと、疑問に思う。
 だけどその答えは直ぐに出て、御島の云う通りだった。
 この部屋では僕はいつだって一人で、母がこの部屋に入って来たとしても、ものの数分も経たない内に出て行ってしまうから……
 殺風景で、普段は一人ぼっちな空間に他人が居ると云う慣れない事実に、僕はひどく緊張していた。

「み、御島さんは…どうしてそんなに…色々と、分かるんですか、」
 何かを尋ねたり、言葉を多く交わすことはしないと、決めていた筈だ。
 印象に残るような、そんな関係にはなりたくない。

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