黒鐡…21
「お、お構い無く…僕は別に、平気ですから…」
僕の身体を気遣ってくれているんだと思うと、何だか嬉しいと云うよりもひどく申し訳ない気がしてしまい、少し控え目な口調で返す。
御島は苛立ったように舌打ちし、顔を近付けて来た所為でキスをされるのかと考えた僕は、咄嗟に目を瞑ってしまう。
だけど額に何かがぶつかって、そろそろと目蓋を開ければ、御島が額を僕の額へと押し付けていた。
「阿呆、おまえが良くてもな、俺は平気じゃねぇんだよ」
きっぱりと云われて、僕は驚きに目を見開きながら、間近の御島をまじまじと見つめる。
御島はどうして、そんな事を云うんだろう。
思わず、どうしてかと訊きそうになったけれど、僕はその問いを何とか押し殺した。
それを訊くのが、御島を更に忘れられなくなってしまいそうで、僕は何だかとても、恐かった。
結局、僕が頑なに拒んだ為、御島は無理に僕を店へ連れて行く事はしなかった。
母の夢を見た日は食欲が無い上に、食べても戻してしまう事が有る。
御島にはこれ以上醜態は曝したく無いし、弱い部分を知られたく無い。
その気持ちは、他人に対して弱みを握られたく無いと思う気持ちとは、何処となく違っているように思えた。
御島には、嫌われたく無い……そんな気持ちだ。
一体この気持ちは何なのかと訝っていても、答えなんていつまで考えても出なくて。
帰ってゆく御島の背を眺めながら、また明日も来るのだろうかと考えて
何故か分からないけれど僕は胸の奥が少し熱くなるのを感じながら、その背を、見送った。
御島と、父の家で初めて言葉を交わした日から、もう二週間は経とうとしている。
御島は毎日のように家に上がり込み、口付けだって何度もして来て、
けれど僕はどうしてかそれを拒否する事が出来なかった。
あっさりとした別れを僕は望んでいた筈で、誰かを心の中に残すこともしたくは無い。
それなのに、御島の声も表情も体躯の良さだって何もかも鮮明に思い出せるぐらいに、いつの間にか彼は僕の中に残ってしまっていた。
ほぼ毎日のように傍に居たから、こんなにも鮮明に思い出せるのかも知れないけれど、自分の異常さに戸惑ってしまう。
人と関わり合いにはなりたく無いし、御島に家に入られるのが嫌なら単にドアに鍵を掛ければいい事なのに、僕はそれすらしない。
最近は御島の事を少しだけ知りたいとまで思うようになったし、普段から表情を崩そうとしないのに、御島の前では自然と崩れる。
いつもの僕からは想像も出来無いぐらい感情の揺れは激しく、御島を前にすると簡単に感情を曝け出してしまいそうな自分が、嫌で仕方が無い。
僕はいつか、御島に甘えてしまうのでは無いかとすら思う。
誰かに甘えるなんて絶対にしたくは無いけれど、御島の優しさを前にしたら
無意識の内にそれをしてしまいそうで―――それが、ひどく恐い。
部屋の隅に座り込んで壁に寄りかかり、開いた本の文字を目で追いながら、溜め息を零す。
他人の事でこんなに悩んだのは初めてだし、気付けば、僕は御島の事をしょっちゅう考えている。
他人に興味なんて示さないし関わろうとも思わなかった僕が、一体、どうしたんだろう。
昨夜は御島の事を、つい余計に考えてしまった所為で良く眠れなかったし、
今だって頭の中では御島の事をあれこれ考えてしまい、読んでいた本の内容は全く頭に入って来ない。
良く眠れないのは普段の事だけれど、誰かの事を考えていた所為で眠れなかったのは初めてだ。
………僕は御島に関して、初めてな事が多すぎる気がしてならない。
そう云えば、恐怖する対象と云うものは何よりも強く心に残るんじゃないかと
僕は何故かふとそんな事を思い付き、御島もそうでは無いかと思う。
御島は僕に対してはとても優しいし、あの黒々しい雰囲気も薄れているけれど、やっぱり恐い事には変わらない。
彼が僕の中に強く残っているのは、御島が恐怖の対象だからでは無いのかと考えた途端、次第に近付いて来る足音に気付く。
存在を強調するかのような、荒々しい足音が廊下側から響いて、その音に集中している自分に気付いた僕は慌ててかぶりを振った。
これではまるで、御島が来るのを待ち望んでいるみたいだ。
自分に苛立ち、落ち着こうと小さな溜め息を零した瞬間、部屋の前で足音は止まって、襖が音も立てずに開かれる。
音も無く襖や扉を開閉出来る御島の仕種はとても丁寧で、好きだ。
「お、おはようございます、御島さん…」
本から顔を上げた僕は、自分から挨拶を口にする。
すると御島はうっすらと口を緩めて、気を良くしたように挨拶を返してくれた。
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