黒鐡…22
母にも返されることの無かった言葉の響きに、少し喜びを感じている僕に襖を物音も立てずに閉めた御島は近付き、隣へと腰を降ろして来る。
その途端、いつものように彼の膝上へと乗せられるけれど、触れられることへの嫌悪感は今となっては無い。
でも膝上へ乗せられると云う行為自体は恥ずかしくまだ抵抗は有るが、この男が逃がしてくれる筈も無く僕は結局、大人しく座っている事しか出来無い。
「……寝ていないのか?少し顔色が悪い、」
顔を覗き込まれて言葉を掛けられ、咄嗟に自分の顔に手をやるけれど、そんな事をしても顔色が悪いか良いかなんて分かりっこ無い。
子供みたいな真似をしてしまった僕に向けて、相手は可笑しそうに笑い出したものだから
僕は急に恥ずかしくなり、慌てて自分の顔から手を離した。
…………どうしよう。
御島の前ではいつもの平静な僕を、どんどん遠ざけている気がする。
顔が熱くなるのを感じ、赤面してしまっているのでは無いかと不安になった僕の手元から、御島は急に本を取り上げた。
「読んだ事のねぇものだな。面白いのか、」
「は、はい。報われない男の話ですけど」
「……シビアだな」
少し苦笑した御島は本を開き、静かに頁をめくってゆく。
頁をめくる手付きがあまりにも丁寧で、僕はつい少しばかり見とれてしまった。
「御島さん…読むの速いですね、」
「ああ、速読は得意な方でな。…これは連作か、」
速く読める上、読みながら会話も出来るのかと関心してしまう。
この男でも本を読むのかと、失礼ながらもそんな考えが頭に浮かび、その考えを振り払うように
瞬きを数回繰り返した僕は相手の言葉に軽く頷く。
好きなところは何処だと訊かれ、御島が今読んでいる箇所を確認した上で、先を云わないよう気を配りながら、僕は答えた。
「僕は、主人公の幼少時代の話が好きです」
「冬が死んでしまうと泣いた時の話か、」
「は、はい、でもそれは死じゃなくて……」
共通の話題に僕は少し気を良くして言い掛けるが、直ぐに言葉を止めた。
幼少時代は丁度御島が読んでいる章だが、僕が好きな部分は、もう少し先の一場面だった筈だ。
一度軽く首を傾げてから相手を見据えると、御島はやけに涼しい顔をしながら頁をめくっている。
その様子に、ようやく御島が内容を知っているのだと気付いた僕は、軽く眉を寄せた。
「内容、知っているんじゃないですか」
咎めるように云うと、御島はクッと低い声色で笑って本を閉じ、目線を上げて僕と目を合わせて来る。
「ああ。だが、四作目からは読んだ事が無い。持っているなら貸してくれ」
「読むんですか、」
「おまえが気に入っているものなら、目を通すさ。…おっと、忘れる所だったな。鈴、土産だ」
臆面無くさらりと云われた言葉が何だかくすぐったくて、御島の言葉が何だかとても嬉しい。
言葉を続かせた御島は僕の顎を掬い上げて、その行動の意味が分かる僕は、相手が顔を近付けて来ると咄嗟に目を瞑った。
けれど唇に触れたのは、いつもの冷たく柔らかいものじゃなくて……。
「鈴、口を開けろ」
鼻につく甘い匂いを不思議に思い、うっすらと目を開けながら言われる通りにすると、御島は小さな固形物を口腔へと入れて来た。
食べ物かと訝って眉を寄せながらそれに舌を付けると、徐々にそれは溶け始めて、口内にじんわりと甘みが広がってゆく。
「どうだ、甘いだろう」
目を細めた御島に尋ねられ、僕は驚きで何も答えられず、頷くことしか出来なかった。
チョコレートなんて食べたのは久し振りで、幼少の頃に母が何度かそれをくれた記憶が有る。
お菓子や玩具など、母は買ってはくれなかったし、それ以上に僕は欲しい物をねだったりした事なんて無かった。
「あ、あの…お金は、」
まだ口内に残る甘さに浸っていたが、直ぐにハッとして、慌てたように問う。
だけど御島は、そんなものはいいと軽く返し、片手に持っていたチョコレートの箱を僕の前に差し出した。
「鈴…もっと欲しいか、」
もう片手で僕の前髪を掻き上げるように頭を撫で、御島は額に唇を寄せながら尋ねて来る。
くすぐったさに少し身を捩ったが、僕は何も答えなかった。
僕は、欲しい物を人にねだった事なんて無いし、人に甘えた事だって無い。
願いや望みを、口にした事なんて一度も無い。
何も云わずにじっと相手を見つめていると、御島は眉を寄せて舌打ちを零す。
しまった、と一瞬だけ考えた僕は、相手に不快な思いをさせたのだろうかと焦った。
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