黒鐡…25

 あんな信じられないような、ひどい事をして来た御島が、嫌に思えたのだ。
 御島は、御島だけは絶対に、僕にはひどい事はしないと思っていたのに。
 まるで裏切られた気になって、御島のことが嫌いになりそうだった。
 いや、大嫌いだ。御島なんて、あんなひどい事をするこの男なんて、大嫌いだ。
 毛布を被ったまま必死で相手を拒絶していると、御島は無理に毛布を剥ぎ取ろうともせず、何だか愉しそうに低い笑い声を漏らすだけだった。
 あんな事をしたと云うのに、御島は謝罪を一言も口にはしない。

「あれだけで気絶するとはな、少し焦ったぜ。飯を持って来てやるから、少し待っていろ」
 そう云い残すと、御島はあっさりと部屋から出て行ってしまった。
 足音が遠ざかってゆくのを耳にすると、直ぐに被っていた毛布を退ける。
 閉ざされた襖を眺めながら、御島がこの家から出て行ったら、もう二度と彼には会わないようにしようと、僕は心に決めた。
 明日からはきちんと鍵を掛けて、もう決して御島には会わないようにしよう。
 二度と、あんなひどい事はされたく無かった。
 御島の事は、今は本当に大嫌いだ。
 そう思った途端、だったらその前はどうだったのかと思う。
 人を嫌いだとか、好きだとか思った事の無い僕に、今の自分の考えはあまりにも強烈だった。

 あんな事をする前の御島は、嫌いじゃなかった。
 優しくされたことの無い僕に、御島はとても優しくしてくれたし、母がしてくれなかった事をたくさんしてくれた。
 だから僕は、御島が……そうだ、好きだったのだ。
 けれど恋愛感情の好きとかじゃなく、きっとこれは普通の好きだと思う。
 愛だとか恋とか、そんなものを同性に抱いてしまったら、僕はそれこそ異常だ。
 でも、それならどうして僕は御島に軽蔑されたくないとか、嫌われたくないとか思っていたんだろう。
 それに、御島にあんなひどい事をされた時、もっと激しく抵抗しなかったのも不思議だ。
 普通に好きな相手だったとしても、あんな事をされれば噛み付いたり引っ掻いたりして、必死で逃げる筈なのに。
 だとしたら、僕の御島に対する好きと云う感情は……普通の、好きでは無いのだろうか。
 激しい抵抗もせず、御島の好きなようにさせてしまった自分が、良く分からない。
 あれこれと考えていると、余計に自分が分からなくなる。
 結局答えは出ず、優しい御島の事を思い出していると、彼を嫌いだと思っていた感情ですら揺らいでしまいそうで、驚いた。
 近付いて来る荒々しい足音を耳にして、ただ戸惑う事しか出来無い僕は
 彼に対する嫌悪感が既に大分薄れている事に、更に戸惑っていた。



 鍵を掛けて御島がもう入って来れないようにしようと、もう二度と会わないようにしようと
 僕は確かにそう決めていた筈なのに、それがどうしてか出来なかった。
 あれからやっぱり御島は毎日やって来て、僕に優しくしてくれて………あのひどい事だって、して来る。
 優しい御島が嫌いになれなくて、自分の意思の弱さにとてつもなく腹が立つし
 あのひどい事をされてもいつも激しく抵抗しない自分が嫌になる。
 もしかしたら僕は、あの強烈な悦楽に、依存してしまっているのでは無いかとすら思えた。
 大体、御島はどうしてあんな事をしてくるのだろう。ただからかっているだけなのだろうか。
 疑問に思っても決して本人に問えない僕は、一人で悩むしか出来無い。
 でも僕は人生経験も浅く、こんな状況を回避する方法も、自分の異常事態をどうすれば治せるのかすら、分からない。

 御島はもしかしたら、僕を傷付けたいのだろうか。
 僕を…………嫌い、なのだろうか。
 そう考えると何だか胸が苦しくて、相手の気持ちが分からない自分が出来損ないのようにも思える。
 人間の心が、気持ちが、分からない。他の人は、他人の気持ちを汲み取ったり出来るのだろうか。
 自問するだけで、いつまで経っても答えが出ずに苛立っていると、此方へ近付いて来る足音が廊下側から聞こえ始める。
 存在を強調するかのような荒々しい音を立てて近付く御島とは違って、音は少し控え目だが、煩い。
 部屋の前で足音が止まったと同時に、乱暴に襖が開かれたけれど、母の顔は普段と違ってとても輝いて見えた。

「リン、暫くの間兼原と出掛けて来るから、大人しくしていなさい」
 大人しくしていなさいと云うのは、本当に大人しくしていると云う事だ。
 家から一歩も外には出ず、誰が来ても応対しない事だ。
 家の電話が鳴り響いたとしても、取る事は許されないのだろう。

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