黒鐡…26

 何も云わずに頷く僕を、母は嬉しそうに見下ろしている。
 その顔はもう化粧をしていて、益々美人に見えた。
 気を付けて行くようにと告げると、彼女はいつもと違ってにこやかに微笑み、ありがとう、と上機嫌の声で珍しく礼を口にした。
 余程、兼原と旅行に行ける事が、嬉しいのだろう。
 幸せそうな母を見て、良かったとホッとする。
 兼原は本当に、母を大事にしてくれているし、幸せを与えてくれているみたいだ。
 それから数分も経たずに母は部屋から出て行き、乱暴に襖は閉められる。
 部屋に残された僕は、彼女が僕に対して笑ってくれた事の嬉しさに、多少浸ってしまう。
 すると廊下側から兼原らしき男の声が響き、僕は閉められた襖を思わず見つめた。
「鈴くんは、どうでしたか?」
「体調が思わしくないから、行けないみたい。残念だけれど、二人で行きましょう」
 残念そうな声を造っている母とは逆に、兼原は心配そうに僕を気に掛けてくれている。
 僕は襖から目を逸らすと部屋の隅へ移動し、壁に寄りかかって座り込んだ。
 込み上げる感情を抑えるように小さな溜め息を漏らし、二人が去ってゆく足音に耳をすます。
 足音が聞こえ無くなると、部屋はいつものように静まり返り
 僕もまた、いつものように棚から取り出した本を開いて、文字へと視線を滑らせた。

 いつものように一人ぼっちの空間は
 何故か少しだけ、寒く思えた。



 母達が出掛けてから数時間後、昼を口にする為に母屋の台所へ赴いたものの、ちゃんとした物を作る気にもなれなかった。
 今朝から何も口にしていないし、別にそれは普段の事だから別に構わないけれど……
 御島がいつも、朝食は食べたのかと訊いて来るし、食べていないと答えれば
 不機嫌そうに眉を顰めるものだから、何か食べなければと思ってしまう。
 仕方なく簡単な野菜の和え物を作ったものの、箸は遊ぶように野菜をつつくだけだった。
 自分の座る席の正面に、誰も居ない空間が広がっているのは今に始まった事ではないが……
 何故か今は物悲しく思えて、僕は箸を机の上に置き、目を伏せる。

 ―――――大丈夫、いつものことだ。
 そう自分に言い聞かせ、湧き上がりそうな負の感情を抑え込んだ。その途端、軽く咳が漏れる。
 また風邪かと眉根を寄せ、手をつけなかった和え物を持ち、冷蔵庫に向けて足を進めた。
 片手で口元を覆い、数度咳を漏らしていると、廊下から足音が響く。
 まさか母が帰って来たのかと一瞬焦るが、足音は荒々しい。
 その足音で、それが誰なのか分かってしまった僕は、母が家の鍵を掛けて行かなかったことに眉を寄せた。
 鍵は閉まっているか、ちゃんと確認しておかなかった僕も悪いけれど
 自分が家に居る事が分かってしまえば、母が云った、大人しくしていなさいと云う言葉をきちんと守らなかった事になってしまう。
 どうしようと焦るけれど、この部屋には隠れる場所なんて何処にも無いし、部屋の出入り口の扉は開け放されたままだった。

「よお鈴…あの部屋以外の場所に居るなんて、珍しいな」
 部屋の前を通りかけた御島は、僕に気付くと足を止めて、室内へ入り込んで来る。
 不法侵入しておいて何の謝罪も口にせず、御島は相変わらずニヤニヤと笑っていた。
 御島に挨拶の言葉を掛けつつ、手にした和え物を冷蔵庫へ直ぐにしまうと、扉を閉め終わらない内に僕は再度咳込んでしまう。
 拙い、と思う間も無く、御島は笑みを消して眉根を寄せ、荒々しい足音を立てながら近付いて来た。
「鈴、どうした。具合が悪いのか、」
「いいえ、平気です」
「馬鹿云え。顔色が悪い、」
 不機嫌な声が聞こえた瞬間、急に身体を抱き上げられる。
 驚く僕なんて構わず、開け放されたままの冷蔵庫の扉を丁寧な仕種で閉めてから、御島は僕を抱えたまま、その場を離れた。



 強引に自分の部屋へと戻され、敷かれた布団の上へと寝かされて、僕は気まずそうに御島を見上げる。
 手間を掛けさせてしまった事で御島に対して申し訳なさが募り、母の言葉をきちんと守らなかった事は、頭の中から消え失せていた。
「どうした、」
 僕の上に覆い被さるような形で、こちらを見下ろしている御島が、低く通る声で尋ねる。
 手はゆっくりと僕の頬に当てられ、何度か目元を親指でなぞられた。
「いえ……面倒を掛けてしまって、すみません」
「何云ってる。こんな事、面倒の内には入らねぇんだよ。それに、おまえに何か有ったらと思うと、気が気じゃないしな」
 御島の言葉の意味が、良く分からなかった。
 それに、どうしてそこまで僕に執着出来るのか、分からない。

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