黒鐡…31
僕の頬をまるで包むようにして手を添えて、御島はとても心配そうに、何処か辛い所は無いかと尋ねて来る。
相手の優しさがひどく心地好くて、僕はその問いに答えることも出来ず、ただうっとりと温かい気持ちに浸っていた。
「風呂は拙いか……シーツも替えなきゃならねぇし、やる事が多いな。
…鈴、少し待っていろよ。直ぐに身体を拭いてやるからな、」
御島はあやすように口付けをして僕から離れ、押入れの襖を開けて真新しいシーツを取り出した。
御島があの、ひどい事をし始めてからはどうしてもシーツが汚れるしで、
だから彼は勝手に、母屋の客室の押入れから、いくつかシーツを持ち出していた。
汚れたものはどうしたのかと思ったけれど、どうやら御島が洗ってくれているみたいで、
彼は何でも出来るのかと僕は感心せずにはいられなかった。
真新しいシーツに取り替えられた布団の上へ僕を寝かすと、御島はじっとしていろと釘を刺してから、襖を開けて部屋から出て行ってしまった。
音も無く閉じられた襖を眺めながら、遠のいてゆくあの荒々しい足音に、僕は耳を澄ます。
……………御島は優しくて、温かい。
そう考えて僕はようやく、どうしてさっき、御島の言葉を否定したかったのかが理解出来た。
彼がさっき、名前の通りの人間に―――――冷たい鉄のような心を持った人間になったと、口にしたものだから
御島の優しさを何度も前にしている僕は、否定したかったんだ。
御島は、御島はとても優しい。
優しくて温かくて、だから鉄のような冷たい心を持つ人間なんかじゃ、無い。
僕は優しい御島が嫌いじゃないし、嫌いになれない。
名前通りでは無いと考えて、布団の中で身体を丸めた途端、廊下から荒々しい足音が響いて来る。
その足音に何故だか安堵感を抱いて、僕は緩やかに目蓋を閉じた。
高熱を出した僕はその後、結局寝込んでしまった。
御島は泊り込みで看病してくれて、母でさえしてくれなかった
付きっ切りで看病と云うものを、彼は当然のようにしてくれた。
仕事はいいのかと問うても、御島は自由業だからいいのだと、軽く返して来た。
父の元で働いているのでは無いかと考えて思わず尋ねたら、あれは本業じゃないのだと教えてくれた。
なら本業はどんなものなのかと気になったけれど、御島が言おうとしないから何だか勘繰るようで嫌に思えた僕は、尋ねる事が出来なかった。
御島は看病してくれている間、自分の運転手に食材や服や必要なものを買いに行かせたり、
医師を連れて来て宅診させたりして来て……御島はとんでも無い事を平気でするなと、僕は少し呆れたりもした。
布団の中で横になっている僕の傍らで、胡坐を掻いている御島は、果物ナイフで器用に林檎を剥いている。
スーツの上着は脱いでいて、シャツは上の釦を外して肘の手前まで袖を捲り、ネクタイすら緩めていて
だらしないとも思える格好な筈なのに、御島がするとどうしてこうも魅力的なんだろう。
体躯が良いからか、それとも御島の整った、精悍で怜悧な顔の所為か。
姿勢が良いのも、理由の一つなのかも知れないけれど、御島の野性的な雰囲気は羨ましく思えるぐらいに格好がいい。
「鈴、気分はどうだ。」
盆の端に皮を乗せ、手慣れたように林檎を切って、皿の上へ並べゆく。
そのあざやかな手さばきに、思わず目を奪われていた僕は尋ねられてはっとし、まだ少し怠いですと遅れながら答えた。
けれど自分の声が思ったよりも弱々しくて驚き、御島はナイフを盆の端に置いてから
どれ…と呟いて、額に乗せられた濡れタオルを取り、代わりにあの冷たい手を当てて来た。
大きな手が触れる感触と、ひんやりとした手の冷たさが、あまりにも気持ち好い。
「……まだ熱が高いな。無理せずに、ゆっくり休んでおけ。治るまでずっと看ててやるから、安心していい」
優しい言葉を掛けられて、胸の奥がどうしてか温かくなる。
御島と関わる前の僕なら、他人に迷惑など掛けたくないし関わりたくないと思って放って置いてくださいと告げて、病気だろうと一人で過ごす筈だ。
いつのまに僕は、こんなに変わってしまったのだろうと考えて
でも御島の手があまりにも気持ち好くて、今は難しいことなんて、考えたくない。
「御島さん、あんまり寄ると、うつってしまう…」
弱々しい声で言葉を放って、けれど言葉とは裏腹に僕は、御島にもっと傍に居て貰いたくて仕方が無かった。
熱で思考がおかしくなっているからだとは思うけれど、何か変な事を口走ってしまいそうで、少し恐く思える。
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