黒鐡…32
「どうだろうな。鈴の風邪なんか俺には効かないかも知れないだろう、……余計な事は心配しなくていい。ほら、ゆっくり休め、」
優しい声が耳の奥まで響いて、御島は僕の額に唇を押し当てて来た。
次第に、うつらうつらとし始めると、御島は寝ていいと静かな声で囁いてくれる。
御島が傍に居てくれると何故か僕はぐっすりと眠れて、本当に、彼の前では僕は何もかもが変わってしまうのだと思う。
それはどうしてなんだろうと考えるけれど、医師の出した薬の所為もあり、眠気はあまりにも強くて……
「大好きだぜ、鈴。俺にはいくらでも、甘えていいからな」
頭を撫でてくれる感触に、じっくりと浸るように、僕は眠りに就いた。
数日ほど経つと熱も下がり、体調も良くなって、御島はその事を喜んでくれた。
熱が下がって思考がちゃんと働くようになると、ずっと看病して貰った事を申し訳無く思え、僕は帰ろうとする御島に何度か謝罪を繰り返した。
けれど御島は気にした様子は無く、別れ際に軽いキスをくれて、そしてまた好きだと囁いてくれた。
御島が好きだと漏らすと、どうしてか僕は何も云えなくなる。
同じ言葉を僕は返していないのに、御島は自分の事を好きかどうかとは、決して尋ねて来なかった。
………御島は変だ。
いくら御島が女性嫌いで、男しか好きになれないんだとしても
僕みたいな脆弱で頼りない、良い所なんて何も無い人間を好きだと思えるなんて、絶対に変だ。
親に迷惑を掛けて、社会に出ることすら出来もしない、男の癖に一人じゃ生きられないような、疎ましく思われる存在なのに。
御島はそんな僕の、何処が好きなんだろう。
こんな僕でも、御島が好きになってくれるような、いい所が有るのだろうか………。
御島が家を出てから数時間後に、母と兼原が旅行から戻って来て、兼原がお土産を僕にくれた。
それは僕が食べたことの無い洋風の生菓子で、気を遣ってくれたのかと思ったけれど、母がそれを選んだのだと聞かされ大層驚いた。
母が僕に何かを選んで買ってくれるなんて、そんな事は今まで無かった。
いつも母は何も言わずに、僕の部屋にお金を置いて立ち去ってゆくし、僕はそれで自分の買いたい物や必要な物を揃えればいいだけの話だった。
だから僕は、母が僕の為に物を選んでくれたと云う事実に、不覚にも涙が出そうになって
それを何とか抑えながら、何度も母に礼を言い、兼原にも頭を下げた。
御島にその事を話そうかと思ったのに、どうしてか彼は顔を見せなくなった。
いつも毎日のように、家へ勝手に上がり込んで来たのに………。
もしや仕事を休み過ぎた所為で、忙しくなってしまったのかと考え、
原因の僕は申し訳無い気になったけれど、それから五日も経つと流石に不安になった。
――――どうして来ないんだろう、もしかすると事故にでもあったのだろうか。
嫌な考えが頭をよぎって、その考えを振り払うようにかぶりを振った僕は、今更ながら、ある事に気付いた。
僕は御島が、毎日訪れることをいつの間にか、当たり前のように感じていたのだ。
このまま来なくなっても、それは別に不思議でも何でも無い。
だって僕は、好きとは云われたけれど、御島とは恋人同士では無いのだから。
一緒にいなければいけないような、そんな大切な存在でも無い。
だから御島がもう来なくなったとしても、それは別に傷付くことじゃないし
それに僕は、人の言動に傷付いた事なんて一度も無いのだから、大丈夫だ。
………大丈夫、大丈夫だ。
まるで言い聞かせるように頭の中で言葉を繰り返したけれど
どうしてか追い詰められたように焦燥感に駆られて、御島のことばかり考えてしまう。
いつものように母は稽古へ出掛けて、僕はいつものように部屋で一人、書物を読み耽る。
普段通りのことをしているのに、僕の心は普段と同じじゃなくて
息苦しくて、御島が傍に居てくれない事がどうしてか……………………淋しくて。
俯き、思わず目を伏せた瞬間、母屋の方から何かが割れる音が響いて、僕は咄嗟に顔を上げた。
耳を澄ますけれど、それっきり何も聞こえず、いつものように家の中は静まり返ったままだ。
もしや御島かと考えた僕は本を畳の上へ置いて立ち上がり、襖を開けて廊下へと足を進めた。
母屋へ続く渡り廊下を進みながら、御島の筈が無いと、僕はぼんやりと考え始める。
御島だったら真っ直ぐにこの離れに来てくれそうなイメージが有るし、彼は何かを割るような、そんな無駄なことはしなさそうに思えた。
それでも、もしも御島だったら――――――。
期待感に背中を押されるように足は動いて、僕は御島のことだけを考えながら、母屋へと向かった。
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