黒鐡…33

 御島の姿を捜すように広い家の中を暫く歩き回っていた僕は、角を曲がった先の廊下で、割れた花器を見つけた。
 花台の上から落ちたのだろうか、透けるような碧色をした小さめの花器は、原形をとどめてはいなかった。
 母が持つには似つかわしくないそれは、僕がまだ幼い頃に、お小遣いを溜めて母の為に買った安物だ。
 母は廊下の隅に有る花台の上に此れを置いただけで、花を生けてくれる事もしてくれなかった。
 埃がかったそれは、結局使われないまま割れてしまったのかと思うと、少し物悲しくも思える。
 散らばった破片を暫くの間ぼんやりと眺めていると、少し離れた居間の方から
 話し声が聞こえて来て、はっきりと聞き取れないが声はどうやら男のようだった。
 不意に頭の中に御島の姿が浮かんで、破片から顔を反らした僕は
 音を立てまいと気を配りながら、居間の方へゆっくりと近付く。
 次第に声は、何を話しているのか分かる程に、ハッキリとしたものに変わっていった。

「ええ、まだ見つかりません。何処に隠してやがるんですかね。……いいえ、絶対に諦めませんよ。
あの皿、美術品として売れば二千万なんですよ」
 どうやら声の主は兼原らしいのだが、何だか口調がいつもと違う。
 いつもは穏やかで丁寧な喋り方をしているのに、今は粗雑に感じられる。

 ………皿が二千万とは、どう云う意味だろう。
 不意に、幼い頃祖母が大切そうに手入れをしていた陶器製の器を思い出したが
 それの事かどうかも分からないし、それが今、何処に有るのかすらも知らない。
 知っていたとしても、兼原は他人だし、他人に関心の無い僕は教える事も無かっただろう。
 これ以上兼原の会話の内容を聞く気にはならず、やはり御島では無かったのだと考えた僕は零れそうな溜め息を堪えて、踵を返す。
 割れた花器へともう一度視線を向けて、あれは兼原が割ったのだろうかと、考えた。
 花を生けることすらして貰えず、淋しく粉々になってしまったそれが、一瞬、どうしてか自分と重なって見えた。

 御島がもう二度と会いに来てくれなかったとしたら、僕はまた、一人になるのだろう。
 それはいつもの事だし、一人は慣れているから
 不安がる必要は無い筈なのに、心は、ひどく寒く感じた。

「すみません、カシラ。また掛け直します、」
 シャツの胸元を握り締めた矢先、背後で声がして、僕ははっとした。
 振り向けば、携帯を片手に持っている兼原が真後ろに立っていて、此方を冷たく見下ろしている。
 一瞬だけ見てしまったその双眸は、怒っているように思えたし、蔑んでいるようにも感じられた。
「やあ鈴くん。離れから出て来るなんて、どう言う風の吹き回しかな」
 愛想のいい口調で言葉を掛けて来るけれど、場の雰囲気は和やかとは呼べない程に張り詰めていた。
「偶然です、」
 相手の顔を見たり、目を見ながら会話をするのは
 やはり御島が相手の時だけのようで、僕は短い言葉を放って軽く俯いてしまう。
 兼原と多く言葉を交わす事もしたくは無く、失礼しますと僕は直ぐに言葉を続かせた。
 軽く頭を下げ、兼原に背を向けて離れへ戻ろうと、足を進める。
 だが数歩進まない内に、強い力で肩を掴まれ、僕は強引に振り向かされた。

「君のその冷めた態度を見る度に、俺は苛ついて仕方ないんだ、」
 よもや兼原がそんな事を云うとは思わなかったけれど、僕は傷付くことは無い。
 相手はどうでも良い人だし、僕は誰かを苛付かせたり
 迷惑がられたりする存在なのだと云うことは、とうの昔に自覚している。
「それは、すみませんでした。…離してください、」
 肩を掴んでいる手を一瞥して声を掛けると、更に力を込められ、流石に痛みを感じた。
 人に触られる事に不快感と嫌悪感を抱き、痛みも合わさって僕は眉を顰める。
 だけど兼原は離してくれず、それ所か目にした口元はうっすらと吊り上がっていた。
 その事に不快感が更に強まって、思わず僕の肩を掴んでいたその手を、
 思い切り叩こうと自分の手を動かした矢先……

「なあ、知っているかい、鈴くん。美咲さん、君を捨てるつもりだよ」
 唐突に掛けられた言葉に、僕は何度か瞬きを繰り返した。

 ………捨てる?母が僕を?
 内心ひどく驚いたけれど、僕は子供じゃないのだから、流石に泣き喚く真似はしない。
 すると兼原はどうしてか舌打ちを零して、本当に唐突に、彼は僕を突き飛ばした。
 大人の強い力で突き飛ばされ、床に倒れた僕は痛みに眉根を寄せながら、ゆっくりと上体を起こす。

「…気に入らないな。もっと悲痛な顔をしてくれよ、鈴くん」
 兼原の言葉は、意味が分からない。

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