黒鐡…34
不意に、兼原には近付くなと云った御島の言葉が頭に浮かんだ。
御島は、兼原の本性を見抜いていたんだろうか。
こうやって、人を平気でいきなり突き飛ばすような、そんな男だと分かっていたのだろうか。
「従姉の、彩子さん居るだろう?あの子を養子にして、家元を継がせる気らしい」
兼原は僕を突き飛ばしたことを謝りもせずに言葉を続かせ、
懐から煙草を取り出すと、何の断りも無く口に咥えて火を点けた。
僕は気管が弱いから、煙草の煙に過度の反応をしてしまう。
だから僕は、煙草が嫌いで、それを吸う人はもっと嫌いだった。
ゆっくりと立ち上がった僕は唇を固く結んで、吐かれる紫煙から距離を取るように一歩後退る。
けれど兼原は僕を追い詰めるように近付いて来て、その口元は相変わらず吊り上がっていた。
「彩子さんが養子になったら、君の存在は邪魔なだけだ。実の母親にすら厄介払いをされるとは……救われないな、君も。」
哀れみを帯びた口ぶりで言葉を掛けられ、同情されるのが嫌いな僕は、不快感が余計に強まった。
兼原の言葉に、胸が痛む事はない。
僕が居なくなって、違う人が家元を継いで……それで母が幸せになるのなら、傷付く必要なんて何処にも無い。
母の幸せは、僕が最も望んでいたものだから。
「お話は…それだけですか。それじゃあ、失礼します」
僕は相手の顔を見ずに、毅然と言葉を返した。
声も普段通りだし、胸も苦しくはないし、ちっとも悲しくなんて無い。
――――大丈夫だ。僕は、傷付いたりなんかしない。
「……本当に気に入らないな、その態度。」
苛ついたように舌打ちを零した兼原が、唐突に手を伸ばして来た。
逃げる間も無く再度肩を掴まれ、強い力で壁に押し付けられて、僕は痛みに小さく呻く。
気に入らないなら、近付かなければいいのに。
こんな僕に、構わなければいいのに。
尤もな事を考えて、込み上げる吐き気を堪えながら顔を上げると、至近距離で紫煙を吐かれた。
煙を少し吸ってしまった僕は口元を抑え、他人に弱さを見せたくない衝動で、何とか咳を堪える。
すると兼原は煙草を咥えたままの口元を愉しそうに歪ませ、低い笑い声を立てた。
「そう云えばあの男、最近良く来るらしいじゃないか。御島…と云ったかな、鈴くんのお友達かい?」
兼原の口から御島の名が出るとは思わず、予想外の話題に
僕は無意識に少しだけ反応して、火の点いた煙草の先端をじっと見つめた。
友達だなんて、そんな馬鹿な事、有る訳が無い。
御島は………何なんだろう。
今更ながら、御島と自分の関係が何なのか考えてしまうけれど、答えなんて出ない。
他人と呼ぶにはあまりにも関係は深いように思えて
だけど大切な人と呼ぶには、何かが欠けていて、関係はとても浅いように思える。
御島との関係性に悩み、戸惑う僕に兼原はもう一度紫煙を吐き捨てて
考え事に集中していた僕は、堪えられずに激しく咳き込んでしまった。
「あの御島って奴も、あれを狙っているのか。それとも……君が家元を継ぐ身だと勘違いした上で、近付いているのか。
まあどっちにしろ、鈴くんは利用されているだけだろうな、」
「り、利用…?」
立て続ける咳の間から、搾り出すような声で問い掛ける。
兼原は何が可笑しいのか、もう一度低い笑い声を立てて、煙草を咥えたまま唇を動かした。
「それしか無いだろう?脆弱で、人に面倒ばかり掛けて、生きている価値すら無い君に……
何の目的も無く近付く奴なんて居る訳が無い。……いや、でも物好きな人も居そうだな、」
思い付いた、とでも云うように言葉を一度区切って、兼原はひどく下劣な笑みを浮かべた。
肩を掴んでいた手を今度は僕の首元へ移動させて、手を回して来る。
咳を止められずにいる僕を満足気に見てから、相手は顔を近付けて来た。
火の点いている煙草の先端が危うい程に近付いて、数センチ間を取っていても、熱が伝わる。
「男の癖に、鈴くんは美人だものな。美咲さんより綺麗だから……囲うのを目的で、君に近付く奴だって居るかも知れないなぁ…、」
兼原が言葉を紡ぐ度に、咥えられた煙草が揺れて、危なっかしい。
けれど触れそうなその先端を恐れるよりも、僕の心は兼原の言葉に、大きく動揺していた。
囲うのが目的……それは本当に、御島に当てはまる。
自他共に認める程の世間知らずな僕だって、囲うと云う言葉が何を意味しているのかは知っている。
御島がキスをしたり、僕にあんな事を何度もして来たのは、それが目的だったのだろうか。
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