黒鐡…35

 ―――――――そうだ。
 こんな、何の取り柄も無い僕に、御島が構ってくれる事自体、変な話だったのだ。
 兼原の云う通り、脆弱で、人に面倒ばかり掛けて……
 そんな僕を、好きでいてくれる人間なんて、居る訳が無い。
 御島が口にした、僕を好きだと云う言葉は…………僕の顔が、好きだと云う事か。

 …………別に、大した事じゃない。
 御島が、好きでいてくれたのは僕の容姿で、僕自身では無かっただけの事だ。
 ただそれだけのちっぽけな事だから、全然大した事じゃない……筈、なのに。
 それなのに、どうしてこんなにも、心が苦しいんだろう。

「あぁ、鈴くん。それだよ、俺が見たかったのは。俺はね、君の顔だけは好きだったんだが…ようやく少しだけ、君自身も好きになれそうだ。
全てに無関心な君を崩すのは、愉しいなぁ…」
 兼原はそう云って、煙草を壁に押し付けて火を消し、僕の頬を伝う雫を指で拭い取った。

 僕は、誰かの言動で泣いた事なんて、無いのに………。
 そう考えた瞬間、僕は御島の前で二回も泣いた事を思い出した。
 一回目は、初めて御島と言葉を交わした日で、あの時は悲しくも、淋しくも辛くも無いのに何故か涙が零れた。
 けれど今は――――――胸が、締め付けられるように痛くて、苦しい。
 どうしてだろう……御島が、僕自身を好きじゃなかったから?
 それが苦痛の理由だとしたら、僕は馬鹿だ。
 御島に好きだと云われて、悪い気はしていなかった僕は、本当に大馬鹿だ。
 御島は僕自身を好いてくれているのだと、勘違いしたままで、いつまでも気付かずにいた。
 ちゃんとじっくりと考えれば、直ぐに分かったことだ。
 男の癖に弱くて、他人に迷惑を掛けなければ生きていけない、
 誰からも嫌われるような面倒な僕を、誰が好きになってくれるんだろう。
 生きている価値すら無い、母にすら厄介払いされる僕なんて…………誰からも、必要となんてされないのに。

「美咲さんが君を捨てたら、組長に差し出すのもいいな。オヤジは君みたいな、綺麗な子が好きなんだが……」
 零れる雫もそのままに、目を伏せて声を殺しながら泣いていると、兼原は喉をごくりと鳴らした。
 そして唐突に、僕の首を掴むように回していた手にぐっと力を込め、首を絞めて来た。
 圧迫感に眉を顰め、喉奥が痛み出して、頭の方に何かが
 上がってゆくような感覚が苦しくて、僕は兼原の手を両手で掴んだ。

「……参ったな、俺も君が欲しくなって来た、」
「―――――悪いが、そいつは無理だ。」
 兼原の背後からいきなり、静かな低く冷たい声が響いて、僕の首を絞めていた手が離れた。
 苦痛から解放された僕は息を吸い込む事に夢中になり、身体を曲げて激しく咳き込む。
 咳を続け、頭痛がし始めたのを感じながら兼原の方を見ると、その背後には
 彼よりも長身の男が…………御島が、立っていた。
 片手で兼原の首後ろを掴んで、もう片手に持っていた万年筆を、相手の目元に近付けている。
 凶器とは思えないそれを突き付けている御島の雰囲気は冷たく、
 息が詰まって身動き一つ出来無いような、黒々しいものになっていた。
 今にも人を殺しそうな、狂気的な殺気を滲ませている御島を前にして
 僕は殺気とか狂気とかを目の前にした事は無いけれど、これがそうなのかと思わずには居られなかった。

「兼原さん、でしたよね。知っていますか、こう云うのでも簡単に目を潰せるんですよ。それに……喉を突き刺す事も出来る、」
 御島の口調は慇懃なものに変わって、だけど僕に掛けてくれるような優しい声は、今は何処にも無くて………
 恐ろしい事を躊躇いも無く口にして、まるでこれが本性なのだと云わんばかりの、鋭い狂気を含んだ声に身が竦んだ。
 間近の万年筆を見つめている兼原の顔はひどく青ざめて、身体も微かに震えている。
 やっぱり、御島が恐いと思うのは、僕だけでは無かったのだ。

「喧嘩のやり方も知らず、ただ組長に尻尾を振り続けて、そこまで昇格したらしいじゃないですか。
あそこの組は、本当にくだらないですね。……消えた方がいい、」
「あ、あんた…何処のモンだ…」
 僕には全く分からない話をしていて、けれど僕は考える事よりも、御島の迫力に怯えることしか出来なかった。

次頁は、少し暴力描写が有ります。
34 / 36