黒鐡…36
「さあ、何処のものでしょうかね。……おい鈴、こっちに来い、」
恐ろしく冷たかった声は打って変わって、僕に向けられた御島の声色は、いつものように優しい。
だけど雰囲気は相変わらずで、壁に身体を寄りかからせたまま足は震えて
立っているのがやっとと云った状態の僕に、御島は焦れたように舌打ちを零した。
「全く、手間の掛かるやつだな、」
やれやれと呟いた瞬間、信じられない事に御島は、兼原の項を掴んだまま真横の壁に向けて、相手の顔を叩き付けた。
鈍く大きな音が響いて、兼原は何か呻き声を漏らしたけれど御島は構わず、
それから相手の頭を何度か引いては壁に叩き付けた。
その度に身体が竦むような鈍い音と兼原の悲鳴が上がり、僕はみっともない程、身体を震わせてしまう。
こんな、圧倒的で痛々しい行動を間近で見た事の無い僕にとって、目の前の光景はあまりにも恐ろしく思えた。
思わず顔を反らして目を瞑っていると、やがて音は止み、御島が僕の名を
いつもの優しい声色で呼んだから、恐る恐るゆっくりと目を開ける。
兼原はぐったりと床に転がり、壁には生々しく血が付着していた。
それを目にして、ひっと悲鳴を小さく上げたけれど、御島は気にもしていないように僕に近付いて、手を伸ばして来た。
兼原の頭を壁に何度も叩き付けていた、暴力的な恐ろしい手が僕の頭に触れて、思わず肩がびくりと跳ねる。
すると御島は笑って、いつもしてくれたように、僕の頭を優しく撫でてくれた。
「久し振りだな、鈴。今日はどうだ、調子はいいか?どこも悪くねぇか、」
兼原の存在なんて無いみたいに、何事も無かったかのように御島の雰囲気は
穏やかなものになっていて、だけど僕は震えながら頷く事しか出来なかった。
御島は頷く僕を見て、そうかと呟いて、そして彼は急に僕を肩に担ぎ上げ、玄関の方へと足を進めた。
何かを云いたかったのに、情けなくも恐怖で声が出せず
結局何も云えないまま、抵抗も出来無いままに、僕は御島に連れて行かれた。
外に停められてあった車の、後部座席のシートへと優しく下ろされ
幾らか恐怖が和らいで来た僕は、御島は一体何者なんだと不思議に思っていた。
普段の荒々しい足音も立てずに、いつの間にか兼原の背後に近付いていたし
暴力的で、しかも易々と大人の男を壁に叩き付けたりして……
そこまで考えると、先程の凄絶な光景を思い出してしまって、僕はぞっとした。
隣に座った御島は運転席の男へ、出せと冷ややかな口調で命じて、
そして直ぐに僕へ顔を向けて唇を緩めて目を細めて来た。
「み、しま…さん、」
「どうした、鈴」
まだ少し声は震えてしまって、だけど御島は此方を見下ろして、僕の話をきちんと聞こうとしてくれている。
「あ…あの、どうして…暫く来なかったんですか、」
頭の中では御島の暴力的な場面が思い浮かび、彼は一体何者なのかと、僕はそればかり疑問に思っていた。
だがそれは何だかとても聞き難くて、僕はもう一つ気になっていた疑問を口にする。
「ああ、少し野暮用でな。……淋しかったか、」
揶揄するようにニヤニヤと笑う御島を前にして、そんな筈ないと答えるべきだったのに、僕はどうしてか素直に頷いてしまった。
御島は意外そうに片眉を上げ、そして急に僕の顎を、指でそっと掬い上げた。
「御島さ…、ま、待ってください…っ」
まさかこんな所でキスをしてくるのかと思い、僕は運転席の男へと視線を向ける。
運転手が居るから嫌だと目で示したのに、御島は気にしていないように顔を近付けて来るものだから、つい慌ててしまう。
焦って顔を反らそうとするけれど、顎を掴まれていてはそれも出来ず、御島は一度喉奥で低く笑ってから、唇を重ねて来た。
久し振りの感触に、どうしてか身体が少しだけ震える。
「鈴…、俺が傍に居ると、嬉しいか?」
少しだけ離れた唇の間から低く通る声で問われ、僕は首を縦にも横にも振らずに、瞬きを何度か繰り返した。
―――――御島の云う事は、事実だ。彼が傍に居てくれる事が、嬉しく思える。
だけど本音を告げるのが何だか恥ずかしくて、僕は答えない代わりに相手をじっと見つめた。
すると直ぐに御島の冷たい唇が重なって、今度は咬み合わせをより深くされ
滑り込むように、彼の舌が口腔へと半ば強引に侵入して来る。
「んっ、ぅ…っ」
あっさりと舌を絡め取られ、きつく吸い上げられ、身体の奥底から湧き上がるような熱に悩まされた。
御島のキスはいつだって、直ぐに僕の思考を奪う。
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