黒鐡…37

 相手の肩を縋りつくように掴んだ瞬間、不意に兼原の言葉が頭に浮かんだ。
 咄嗟に身を少し捩ると、それに気付いた御島は、ゆっくりと唇を離してくれる。

「か、兼原さんは……大丈夫、でしょうか、」
 訊きたいのはそんな言葉じゃないのに、僕は的外れな質問を口にした。
 僕の問いを耳にした御島はどうしてか眉を寄せて、小馬鹿にするように鼻で笑った。
「おまえに触れた上、おまえを泣かせたんだ。殺されても文句は言えねぇだろう、」
 御島が発した言葉があまりにも冷たく、僕は一瞬だけ先程の恐ろしい御島を思い出し、自然と眉根を寄せてしまう。
 兼原のことはどうでもいいし、別に彼が傷付こうと構いはしないのだけれど
 彼が死んでしまったりしたら母が悲しむだろうし、それに御島だって、殺人で捕まってしまう。
 母が悲しむ、と云う事よりも御島が捕まる方が嫌に思えて、僕は不安に駆られて御島を見つめた。

「おい…他人の事なんぞどうでも良いだろう。いつまでもあんな奴の心配なんかしてるんじゃねぇよ。妬くぞ、」
 やく、とは何だろうかと考え、訝る僕に向けて御島は大きな舌打ちを零した。
 大体、僕は兼原の心配じゃなくて、御島が捕まらないかを心配しているのに……
 御島は捕まることなんて何とも思っていないのだろうか。
 そう思うけれど彼がもう一度舌打ちを零したものだから、御島が一層不機嫌になった事に僕は焦って、すみませんと謝罪を一つ零した。
 だけど御島は気を悪くしたように更に眉を顰めて、大きな手を僕の頬に当てて来た。

「鈴、あいつに何を言われた?おまえが首を絞められたぐらいで泣くような奴じゃねぇって事は、良く知っている。……何を言われた、」
 最後の、二回目の問いは恐いぐらいに声が低く、まるで脅すような口調だった。
 怒っているとも取れるような表情で僕を見下ろしている御島の雰囲気が、
 少し鋭いものになり始めて、僕は微かに震えてしまう。
 力強い双眸の、圧倒的な威圧感に身体がひどく緊張して、御島はどうしてこうも
 恐ろしい人間なんだろうと、僕と同じ人間なのにどうしてこうも違うのかと、僕は何も答えずにそんな事を考えていた。

「鈴…いい子だから答えろ、」
 頬を撫で、親指で目元をなぞった御島の囁くような問い掛けに、僕はようやく、本当に弱々しくだけれどかぶりを振った。
「母が…僕を捨てる、と…」
「それだけか、」
「ほ…他には、何も言われて、ません」
 相手の静かな問いに、僕はたどたどしく視線を逸らし、少し震えた声で答えた。

 御島を、本人を前にして、言える訳が無い。
 御島が僕自身を好いてくれているんじゃないと分かったから、
 それがとても悲しくて僕は泣いたんです、だなんて……馬鹿らしいにも程が有るじゃないか。

「そうか。……鈴、俺に嘘を吐くとは、大した度胸だなぁ…えぇ?」
 鋭利さを含んだような声音に、僕は一瞬で背筋を凍りつかせた。
 雰囲気さえも、どす黒く、獰猛な獣を感じさせるような……息苦しささえも覚える程の、張り詰めたものに変わる。

 目元をなぞっていた手がゆっくりと移動して、彼の大きな手が僕の首筋に回って――――。
 僕は思わず小さな悲鳴を上げて、逃げるように身体を捩った。
 御島が、兼原をいとも簡単に傷付けた暴力的な御島が、兼原のように僕の首を絞めて来るのかと思って
 この瞬間、心底僕は御島を恐れて怯えた。

「何を怯えてやがる……俺がおまえに手を上げるとでも思っているのか、」
 けれど御島は僕を見て軽く笑って、ゆっくりと優しく、首筋を指で撫で上げて来た。
 口調も雰囲気も相変わらずだけれど、その手付きだけは丁寧で、ひどく優しい。
「い、今の御島さんは………こ、恐い…」
 僕は何とかして逃げようと顔を引きながら、搾り出すように震えた声を出す。
 御島はその途端、すぅっと目を恐いぐらいに細めて、直ぐに首筋から手を離してくれた。
 どうしてか御島のその表情がひどく冷たく、恐ろしく思えて、僕は逃げるように端の方へ動いて距離を取る。
 行き止まりだと告げるように僕の身体がドアに当たった瞬間、
 唐突に伸びて来た御島の手が僕の肩を掴んで、強い力でドアに押さえつけられた。

「……鈴、俺をあまり怒らせるなよ。言え、何を云われた。…言わねぇと、今直ぐ此処を咥え込むぞ」
「な…っ」
 そう言った御島が片手で僕の股間部を撫でて来て、絶句した。
 車内は広く、体勢によれば出来るのかも知れないけれど、そんな事は絶対嫌だと云うように、僕は何度もかぶりを振る。

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