黒鐡…42

 僕はもう何もかもを諦めたし、御島にはどうやっても敵わない事を思い知らされた。
 必死で守っていたプライドをいとも簡単に剥がされたのだから、隠すことはもう無い。
「兼原の野郎がそう言ったのか、」
「兼原さんは…僕の顔は美人だから、囲うのを目的で僕に近付く人だって居る、と」
 目を伏せて、ただ単調に言葉を返すと、御島は僕の頭から手を離した。
 離れてゆく感覚にひどく胸が苦しくなって、僕は眉根を寄せて、訊かれてもいないのに言葉を続かせた。

「御島さんは僕の顔が好きなんですよね。美人な母に似ているから、僕は顔だけは良い。けれど他は最悪だ。直ぐに厭きるに決まってます。早く手放した方がいいと思いますよ……僕なんかに十倍もの値を出すなんて、勿体無い」
 元値は幾らか知りませんが、と言葉を続かせて、僕は短く息を吐いた。
 何だかまるで、自棄になっているみたいだと考えて、事実その通りなのかも知れないと思う。

「聞いていたのか、」
 責めるような口調でも無く、ただ静かに御島はそう尋ねて、ベッドの上へあがって来た。
 盗み聞きするような人間なのだと分かったのだから、今直ぐにでも僕を手放しても良い筈なのに、
 御島はどうしてか僕を優しく抱き起こして、胡坐を掻いた膝の上に僕を座らせてくれた。
 抵抗はせず、ただ視線を逸らして頷いた僕の腰を、御島は片腕で抱いて来る。
「……人を、八人も殺したって、本当なんですか」
「俺の本業だからな」
 躊躇いがちな僕の問いに、御島は本当に素っ気無く答えた。
 つまらない仕事だとでも云うような御島の姿に、僕は何度か瞬きを繰り返す。
「人を殺すだなんてしたら、捕まってしまう」
 尤もな事を言ったのに御島は一瞬片眉を上げて、どうしてか、可笑しそうに笑い出した。
 笑い所が分からず、半ば呆然と相手を見据えていると、やがて御島は笑うのを止めて一度だけ深く息を吐いた。
「おまえ……ガキの頃と同じことを云っている、」
「え…、」
 ガキ、と聞いて思わず訝るように眉を寄せたけれど、そう云えば御島曰く僕は昔彼と会っているのだと思いなおす。
 でも僕は御島の事なんて覚えてもいないし、人違いでは無いかと結論を出して、気にしない事にしていたのだ。

「あの…その事なんですけど、僕は覚えていません。人違い、なんじゃないですか?」
「……知っているか、鈴。人間は極度のストレスや精神的なショックにぶつかると、その部分の記憶が消える事も有るらしいぜ」
 微妙に話をそらされて、一体御島は何が言いたいのかと考えていると、相手は僕の髪を指で梳くように撫でた。

「――――俺は過去に、おまえを殺そうとした事が有る。頼まれて、な」
 放った言葉に似付かない、優しい声音が耳の奥に響く。
 あまりにも優しい物言いだったから暫くの間、上手く言葉が理解出来なくて、理解した瞬間僕は瞠目した。
 だけど、この優しい御島が僕を殺そうとしたなんて、そんな事、俄かには信じられなかった。
「…た、頼まれたって、誰にですか」
「古谷に強い恨みを持つ奴、だな。古谷は本妻との間に子供は居ないが、妾腹のガキが居る。…おまえの事だ、鈴。おまえの存在を知ったそいつは、おまえを殺して古谷に大きな傷を与えて、苦しめてやりたいと願っていた」
 古谷とは、父の名字だ。けれど父は、僕を愛しては居ない。
 僕が殺された所で、父がダメージを受ける筈が無い。

「……父さんは、僕が死んだとしても悲しみません」
「ああ、だろうな。だが、そこまでは分からなかったらしい。ガキを殺すだけで一億出すと云われた。こんな良い話は中々ねぇからな…請け負って、俺はおまえを殺しに行った訳だ。」
 ひどく淡々とした口調で御島は言って、僕は何だか居た堪れなくなって、目を伏せた。
 そんな、そんな事は全く覚えていない。
 やっぱり御島は人違いをしているんだと考えて、だけどふと、さっきの御島の言葉が……
 ストレスやショックにぶつかると、その部分の記憶が消える事も有ると云った言葉が、頭の中に浮かんで消えた。
 口の中が少し渇いて、その事に僅かに眉を寄せながら僕は口を開く。

「どうして、どうして僕は…生きているんですか、」
「覚えていないだろうが、おまえは俺に向けて、殺してもいいと口にしやがった。……死ぬ事にも生きる事にも無関心なガキが、どんな人間になるのか見たくてな。単なる俺の気紛れで、見逃しただけだ。死なない程度におまえの首を絞めて気絶させたから、忘れたくもなるだろう」
 御島の言葉を聞いて、僕はそうだったのか、としか思えなかった。
 あまり実感が湧かず、過去の事だからと考えるだけで、恐怖も感じない。


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