黒鐡…45
御島の元で暮らし始めてから既に三週間は経って、僕はその間、とても楽しくて仕方が無かった。
彼は僕を色々な所へ連れて行ってくれたし、初めて行った水族館では人込みに酔って
気分が悪くなってしまったけれど、御島はそんな僕を責める事なく、いつだって優しく扱ってくれた。
その上、寝る時も食事の時も御島は傍に居てくれて、寂しさや虚しさを感じる事なんて無かったし、僕は毎日ぐっすりと眠れた。
もうずっと子供の頃から笑わなかった僕は、御島の些細な一言に笑ったり微笑んだりするようになって、御島も僕の笑った顔が好きだと口にしてくれて
僕は本当に、とてもとても楽しい日々を過ごしていた。
――――――だけど。
楽しいと感じる度に母の事を思い出してしまうようになった僕は、最近また笑えなくなった。
彼女は僕が居なくなって、ちゃんと幸せになってくれただろうか。
母が幸せじゃないと、僕は自分が楽しい想いをしては、いけない気がしてならない。
いつまでも母に拘るのは拙いと思うけれど、御島の傍に居れば居る程、母の事が頭から離れなくなっていた。
その事を御島には言わなかったけれど、僕が母の事を思い出す度に御島はまるで
慰めるように抱き締めたり、優しく頭を撫でてくれたりしたから、多分彼は勘付いている。
それなのに、母に拘る僕を決して責めたり馬鹿にしたりもしないし、諦めろとも強要しないから御島は本当に優しくて、温かい。
だけど優しさを向けられる度に、今どうしているのか全く分からない母の事を………母の幸せを、僕はひどく気にしてしまう。
――――――母は今、ちゃんと笑ってくれているだろうか。
読んでいた本の頁を捲る手を止め、僕は自分のその考えを掻き消そうとするように、ゆっくりとかぶりを振った。
僕は母の事を何時までも考えているべきじゃないし、もっと大切な事を考えなければいけない。
御島が、自分で気付く事に意義があると言った………
御島が好きなのは僕の顔だけだと勘違いして、その事がひどく辛かった理由を、ちゃんと考えなければいけない。
………僕は、御島がとても好きだ。
今までの僕の感情や言動を整理してみたら、自ずと答えはそこに行き着いた。
だけどそれが恋愛感情の好きかどうかはひどく曖昧で、認めるにはどうも経験が足りないように思える。
人に恋したりとか、そんな経験なんて一つも無いのだから………これは恋なのかと自分に問い掛けても、そうだとも違うとも思えないのだ。
「鈴、おい…何処にいる、」
静寂な空間内に御島の声が唐突に響いて、僕は本から顔を上げた。
御島の家の地下は驚く事に、まるで僕が良く行く図書館のように書棚が多く並んでいて、僕が好きな本も沢山有った。
だから御島が外出して暇な時は、僕はいつも此処に籠もっている。
「御島さん、もう戻ったんですか」
本を閉じながら問うと、あの荒々しい足音が、此方へと向かって来る。
御島がやって来る前に、この書棚と書棚の間から出なければと僕は焦って、慌てて本を棚に戻した。
棚と棚の間は広く、御島が入って来ても狭くも無いのだけれど、以前、入って来た御島に
壁際に追い詰められて淫らな事をされた事が有るから、僕はつい慌ててしまう。
御島はほぼ毎日のように、時間も場所も選ばずに僕を責め立てて来るから、その点は少し困る。
急いで出た先で僕は何かとぶつかって、それが御島の身体だと直ぐに気付いた。
「何をそんなに急いでやがる。危ないだろう、怪我したらどうするんだ」
反動でよろけた僕の身体を、御島は片手で支えるように抱き寄せて、少し呆れた口調で云ってから優しく笑って頭を撫でてくれた。
意識しているのは僕だけなのかと考えて、一人で焦っていた事を恥ずかしく感じながら、僕は誤魔化すように口を開く。
「僕はそんなに脆くありません。……お帰りなさい、御島さん」
「ああ。ただいま、」
御島は短く答えてくれて、それから僕の顎をゆっくりと掬い上げて来る。
いつものように軽いキスをされるけれど、彼の少し冷たい唇が触れると僕はそれだけで背筋がぞくぞくとして、熱が上がってしまう。
「鈴…また此処でされないかと、焦っていたんだろう。本当に可愛いやつだな、おまえは」
唇を離した御島が可笑しそうに喉奥で笑って、その言葉に顔がひどく熱くなる。
御島はやっぱり、何でもお見通しなのかと思うと、少し悔しい気もするけれど
彼からして見れば成人していない僕なんて遙かに子供なんだろうし、分かり易いのかも知れない。
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