黒鐡…46
「だ、だって御島さんは、何処でもしようとするじゃないですか。普通は焦りますよ、」
「そうか?…だが鈴は、いつも気持ち好くって泣くだろう。本当は好きで好きで仕方無いんじゃないか、」
ニヤニヤと笑いながら揶揄されて、そんな事は無いと直ぐに反論するけれど、御島の云う事は事実に近い。
あの気持ちの好い事を、好きと認めるのはとても恥ずかしいけれど……
強く拒んだり出来無いのだから、僕はそれがやはり好きなのだろう。
「御島さん、今日は戻るのが早く無いですか?出掛けてから、二時間も経っていませんよ、」
壁に掛かっている時計を眺めながら、話題をそれとなく反らすと
御島は僕を抱き締めていた手を離して、ああ…と短く気の無い言葉を返した。
「急な話なんだが、おまえに会いたがっている奴が居てな。おまえさえ良ければ、そいつが待つ店に今からでも連れて行こうかと思うんだが」
「僕の知っている人、ですか…?」
本当に急な話に僕は怪訝そうに眉を寄せて、御島を見上げた。
もしかして………母、だろうか。
母の事が引っ掛かっていた僕は一瞬そう考えてしまったけれど、彼女が僕に会いたがるだなんて、そんな事は夢のまた夢だ。
「いや、俺の従兄弟だ。俺を惚れさせたおまえの事を、見てみたいと煩くてな」
御島の手がもう一度僕の頭を撫でて、その感触はいつだってひどく心地が好いけれど
僕は彼の放った、惚れさせたと云う言葉が無性に恥ずかしくて、視線を落としてしまう。
「無理に会う必要は無いぜ、嫌なら断ってやる。」
優しい声音で囁かれて、髪を梳くようにして頭を撫でられて、僕はそろそろと視線を上げた。
御島の従兄弟……と云うからには、御島の事を良く知っているのだろうか。
もしかしたら、僕の知らない御島の話を聞けるかも知れない。
そう考えて会います、と短い言葉を返すと、御島は一瞬だけ意外そうに片眉を上げ、僕の頭から手を離して鷹揚に頷いた。
「そうか。帰りたくなったら、いつでも云えよ」
思い遣りを感じさせるような発言に喜びを感じたけれど、直ぐに母の顔が浮かんで………
僕は頷いて、少しだけ目を伏せた。
家の前に停められていた車の脇に立った運転手は、御島に向けて深々と頭を下げた後
直ぐに車の扉を開けて、そのまま動かずに待機していた。
「乗れ、鈴。今日は助手席だ、」
「え…?」
御島は促すように少しだけ僕の背を押して、驚く僕には構わずに、彼は運転席へと乗り込んだ。
扉を開けていた運転手は、行ってらっしゃいませと言葉を掛けて、丁寧な仕種で扉を閉める。
今日は御島が運転するのかと考えて、彼は免許を持っていたのかと、僕は失礼ながらもそんな事を思いながら直ぐに助手席へと乗り込んだ。
「御島さん、運転出来るんですか」
シートベルトをしながら思わず疑問を口にすると、御島は可笑しそうに笑って、本当は自分で運転する方が好きなのだと教えてくれた。
「だったら、どうしていつも運転手を?」
「此処に居たら、おまえにあんまり触れられないだろう。俺はいつでも、おまえを可愛がってやりたいからな」
車を滑らかに発進させながら、臆面無くそう言った御島の言葉に、僕は少し唖然とした。
そんな理由で運転手を雇っているのかと考えて、だけどそれはあんまりだから
多分御島は、僕をまたからかっているのだと思うことにした。
御島の運転は如何なものかと思っていたけれど、彼は本当にとても丁寧な運転をしていた。
あまり振動も無く、滑らかに走行出来るのは車の性能が良いからだと御島は教えてくれたけれど、僕はそれだけとは思えない。
運転中の彼にあまり話し掛けてはいけないと思ったのに、御島は前を向いたまま、僕を退屈させまいとしているのか沢山話し掛けて来てくれた。
喋りながらも丁寧な運転を続けられるなんて、御島はとても器用なんだなと、僕は関心せずにはいられなかった。
会話は絶えず、自分からも話題を振ったり質問したりする事が多くなった頃に、僕は不意に、気になっていた事を尋ねた。
「あの、御島さん。従兄弟って…どんな人なんですか?」
「……人間観察を趣味としている、変わった奴だ。歳は三十六で、職は医者をやっている」
素っ気無く御島は答えて、それから僕に一度だけ視線を向けて、苛立ったように大きな舌打ちを零した。
「それと、根っからのゲイだ。おまえはあいつのタイプじゃねぇから大丈夫だと思うが……一応、気を付けろよ鈴」
「………は?」
御島の言葉に僕は唖然として、ゲイと云う意味は分かっているから
訊き返す必要なんて無かったのに、僕は思わず訊き返してしまった。
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