黒鐡…52

「鈴、調子でも悪いのか。さっきから、普段と様子が違う」
 思わず目を少し伏せると心配そうな声が聞こえて、僕はたどたどしく御島の方へ目を向けた。
 さっき、と云うのは多分、店に入る前に僕が御島の手から逃れようとした時の事だろう。
 僕だって自分でも変だと思うぐらいに、御島を意識してしまっていつもと違うし、御島の云う通り調子が悪いのかも知れない。
 だけど迷惑は掛けたくないから、僕は大丈夫ですと短く答えた。
「そうか…食欲が無いなら、無理に食う事はねぇからな。嫌いな物が有ったら言えよ、」
「黒鐡、ちょっとそれは甘やかしすぎなんじゃないか、」
 僕が御島に言葉を返す前に、あの人が口を挟んで来たけれど、御島は僕の方を向いたままで相手を見ようともしない。
「俺には、鈴が構ってくれって言っているように見えて、仕方ねぇんだよ」
「い、言ってません、そんな事っ」
 口元を緩めて笑った御島の言葉に僕が慌てて反論した瞬間、彼の懐から振動音が響いた。
 静かな室内ではその音が十分響いて、御島は懐から携帯を取り出すと、画面を眼にして眉を寄せた。
「電源ぐらい切っておけよ、」
 呆れた声が御島の真向かいから上がったけれど、御島は謝罪する事無く素早く立ち上がって
 僕を一瞥してから、何も告げずに足を進めて部屋から出て行ってしまった。

「あの様子だと、本家の当主様かな。六堂嶋(りくどうじま)家はね、黒鐡に依存しているから大変なんだよ」
 箸を一度置いてから男は溜め息を吐いて、それから僕の真向かいに移動して来る。
 六堂嶋、と云う名がもう一度出て、ようやく僕は思いだした。
 御島が人を殺したと知った……あの、寝室の外で聞いた会話の内容が、頭の中に浮かぶ。
 御島とあの時言葉を交わしていた相手の声は、この人の声にとても近い気がした。

「あ、あの、六堂嶋って、何なんです?黒鐡さんの姓は、御島じゃないんですか?」
「六堂嶋はね、自慢する訳じゃないんだが…実業界では名の通った名家だよ」
 逸深は大した事は無いと云うように、あっさりと答えてから、一度お茶に口を付けた。
 それから軽く息を吐いて、美味いなと呟いてから、言葉を続かせる。
「御島は、黒鐡の母方の姓なんだ。あいつ、六堂嶋を嫌っているから、そっちの姓を使っているんだよ。でも相馬君、あいつの事苗字で呼んでいるのか…下の名前では呼ばないのかい?」
 下の名前、と聞いて、僕は少しだけ俯いてしまう。
 呼ぶ時はあの……とてもとても恥ずかしい事をする時だけだ。
 御島はあの時だけは僕に名前を呼ぶようにと云うし、僕もそれに逆らう事無く、云われた通りに名を口にする。
 けれどそんな事をこの人に言える筈も無く、僕は相手の喉元へ視線を向けて、口を開いた。
「稀に、呼ぶ事は有ります。でも、何故そんな事を訊くんですか、」
 少し控え目に尋ねると、相手はどうしてか笑い出した。
 それでも決して嫌な笑い方じゃないし、見下されている感じもしないから僕は不快感も得ず、ただ戸惑う事しか出来なかった。

「稀にか…惚れた相手に稀にしか名を呼んで貰えないなんて、黒鐡も報われ無いな。ああ、でも苗字で呼ぶのも初々しくて良いね」
「初々しいって…、」
 何処ら辺に初々しさなんて感じたりするのか、良く分からない。
 不可解な発言に眉を寄せると、相手はテーブルの上に肘を乗せて身を乗り出すように、少しだけ顔を近付けて来た。
「正直、俺はさっきからずっと、自分の目を疑っているよ。黒鐡が誰かに優しくしている姿なんて、見た事が無いからな。それなのに、あいつは君にとても優しく接しているし……相馬君だって黒鐡が相手だと、表情がとても豊かになっている」
「え…っ」
 普段から表情を崩そうとしない僕は、御島の前では自然と表情が崩れる。
 その事は自分でも分かっていたから別に驚く事は無いけれど、あの優しい御島が
 優しくない人間だとでも云うような物言いに、僕は少しだけ驚きの声を上げてしまった。

「あの…御島さんは、どんな方なんですか、」
「難しい質問だね。優しくない人間だってのは、断言出来る。あいつは惚れても、優しくなんて絶対にしない奴だ。本性を見せないし、俺にも良く分からないけど………平気な顔で他人を利用して、躊躇い無く裏切るよ。」
 御島を悪く言われた事に僕はいささか腹を立て、眉を寄せてあからさまに不機嫌な表情を浮かべてしまう。
 すると真向かいに居た人物は、逆に愉しそうな笑みを浮かべた。
「俺でも君の表情を崩す事が出来るんだな、何だか安心したよ。なあ相馬君、見た所、君は黒鐡の事を嫌いじゃないみたいだし……あいつの事を少しでも好きで居てくれるなら、付き合ってみたらどうかな?黒鐡は絶対君を、幸せにしてくれると思うよ」


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