黒鐡…53
幸せ、と聞いて、御島の事についての会話の筈なのに、僕の頭の中には母の顔が浮かんだ。
僕は母の幸せを気にしているけれど、自分の幸せなんて考えた事も無い。
御島も以前、僕を幸せにしてやると言ったけれど、僕には幸せと云う感情が、どんなものなのか分からない。
「逸深、強制するな。鈴が困ってんだろ、」
いきなり耳に入って来た声音は低く、とても不機嫌そうに感じられた。
慌ててそちらに顔を向けると、いつの間に戻って来ていたのか、出入り口の襖の前に御島が立っていた。
苛立ったように眉を顰めながら此方に近付き、御島は僕の隣へと腰を下ろす。
真向かいの逸深は何も告げずに席を移動して、再び御島の正面へ座った。
「早いな。当主様が相手なら、三十分は話し込む筈だろう、」
「てめぇと鈴を、長い間二人だけにさせておけねぇからな」
剣呑な雰囲気が御島から漂って、彼がひどく苛付いているのが理解出来た僕は、直ぐに御島から目を逸らし、不意に正面の硝子障子へと目を向けた。
庭の風景が硝子越しに見えて、気が重くなる。
殆ど紅葉している庭の木々を眺めていると、母との思い出ばかりが頭の中を巡った。
この店を出て、少し歩けば家に辿り着ける。
母は、家に居るだろうか。
………幸せに、暮らしているだろうか。
いつの間にか母の事を考えている事に気付いて、僕は逃げるように庭から目を背けた。
そうだ。此処から少し歩けば、母に会えるのだ。母の様子を、見る事だって出来る。
その事実が激しく僕を駆り立てて、逸深と言葉を交わしている御島を、遠慮がちに見遣った。
御島は直ぐに僕の視線に気付いて、会話中なのに僕の方へ顔を向けて……
逸深と言葉を交わしていた時は無表情だったのに、今は口元に笑みを浮かべている。
「どうした、鈴」
優しい声音で尋ねられて、胸がひどく熱くなった。
ちゃんと御島を見る事が出来なくて、僕は少し目線を逸らしてから薄く唇を開く。
「あ、あの……お手洗いに、行って来ても良いですか、」
声が震えないようにと祈りながら、僕は嘘を吐いた。
直ぐに答えは返って来なくて、沈黙が長すぎるように思えて御島の方へ視線を戻すと、あの鋭い双眸と目が合う。
心臓を鷲掴みされたようにどきっとして、僕はごくりと唾を呑み込んだ。
―――――大丈夫だ。
母の姿を見たら、直ぐに戻ってくれば良いだけの話なのだから……
だから僕は、御島から離れる訳じゃないし、彼を裏切る訳でも無い。
ひどく緊張する心を和らげる為に、そんな事を考えながら答えを待つと、御島は手洗い場の位置を分かり易く教えてくれた。
礼を口にして立ち上がると、足が少し震えているのが自分でも分かって
悟られまいと直ぐに足を進めて、僕は部屋の出入り口の方へと向かう。
「鈴、」
襖を開けようとした僕の背に声が掛かって、内心ひどく驚いた。
恐る恐る振り返ると、御島が……あの力強く、鋭い双眸が此方を見据えている。
「……付いて行ってやろうか、」
「け、結構ですっ、僕はそこまで子供じゃ有りませんっ」
ニヤニヤと笑っている御島の言葉がとても恥ずかしくて、そう返してから直ぐに襖を開け、半ば飛び出すように部屋を出た。
音を立てまいと気を配りながら襖を閉めて、足早にその場を離れる。
庭が良く見える廊下で一度足を止め、振り返るけれど、御島が付いて来る様子は無い。
僕をあまり一人にさせる事は無いのに、彼にしては珍しく
やけにあっさりと僕を離してくれたな…と、それだけが少しだけ心に引っ掛かった。
前を向き直して庭の方へ視線だけを向けながら、僕は御島の事を思い浮かべる。
母がちゃんと幸せになれている事を確認出来たら、その時は御島に本当の事を………
告白をしよう、と心に決めて、僕は足早に廊下を進んだ。
店の人に声を掛けられた時は、心臓が止まるかと思うぐらい驚いたけれど
僕は何とか店を出て、周囲には人気も家屋も無い、孤立したあの家の前へ辿り着いた。
もしかすると、声を掛けて来た店の人は、僕が先に出て行ってしまった事を御島に教えてしまったかも知れない。
でも僕はちゃんと御島の元に戻るつもりだし、裏切る気なんて無いのだから、責められる謂れは無い。
だけど……もし、嘘を吐いて勝手に店を抜け出してしまった僕を、御島が嫌いになったらどうしよう。
御島の姿を思い浮かべると、恐怖と焦燥感をひどく感じて、身体が震えた。
恐いのは御島の事じゃなくて、彼に嫌われてしまうんじゃないかと云う事が………何よりも、恐い。
僕はいつからこんなに弱くなったのだろう。
人に嫌われる事なんてどうでも良かったし、どう思われようと気にしない程、以前の僕は強かった筈だ。
―――――――誰かを好きになると云う事は、弱くなると云う事なのだろうか。
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