黒鐡…54

 そう考えて、損だなと呟いて少しだけ笑って、僕は門をくぐって庭を通り、玄関へと突き進んだ。
 暫く見なかった所為か、自分の家なのに、扉を開けるのが躊躇われる。
 まるで他人の家の扉を勝手に開けるように思えて、僕は暫くの間その場で少し、まごついた。
 けれどあまり時間を潰している暇なんて無いのだと、早く戻らなければ逸深も居るのだから
 御島に恥を掻かせてしまうのでは無いかと考えて、その考えに促されるように僕は扉を開けた。
 鍵が掛かっていない事に、相変わらず無用心だと思いながら、家の中へ足を踏み入れる。

「…リン?」
 玄関で靴を脱ごうと上体を屈めた僕の耳に、懐かしい呼び声が響く。
 靴を脱ぐのを止めて咄嗟に顔を上げると、少し離れた先の廊下で女性が――――母が、此方を伺うようにして立っていた。
「リン、本当にリンなの、」
 騒がしい足音を立てて僕の前へと近付いて、彼女は信じられないものを見ているように目を見開いて、此方をまじまじと見ている。
「母さん、あの…僕、」
 躊躇いがちに言葉を掛けようとすると、母は不意に踵を返して、僕の前から去って行ってしまった。
 半ば呆然と母の背を見送って、僕は緩やかに目を伏せる。
 久し振りに会えた事を母が喜んでくれる筈も無いし、ましてや抱擁なんてしてくれる筈も無い。
 何を期待していたんだろうと思って苦笑を浮かべ、僕は踵を返した。

 母は………大丈夫だ。
 僕が居なくたって、寂しくも何とも無いだろうし。
 目に見えて幸せって訳でも無いけれど、兼原が居るから、兼原が母を幸せにしてくれるから……
 僕では、母を幸せにする事は出来無いのだから―――――。

「リン、待ちなさいっ」
 扉に手を掛けた途端、後ろから叫ぶような声が掛かって、僕は振り返る。
 母が形相凄まじく、急いた足取りで再び僕の方へと近付いて来た。
 その迫力に何事かと驚く僕の目に映ったのは…………母の片手に握られた、鈍く光る包丁だった。



「リン、リン…あんた、あんたの所為で兼原と駄目になったわ、」
 母の震えた声が響いて、だけど僕はその手に握られた包丁から、目を逸らせずにいた。
 握っている手も震えていて、それを見ているとひどく心が冷えてゆくのが分かる。
「……どう云う、事」
「兼原から聞いたわよ、御島にやられたって……あんたが御島に頼んで、兼原を痛めつけたって。いつの間に御島を誑し込んだのよ、」
「誑し込んだって、何を言って……あの人が僕の首を絞めたから、御島さんは…」
「あんたが居なくなってようやく楽になれると思ったのよ。それなのに……あんたはどれだけ、私の幸せを壊せば気が済むのっ」
 僕の話なんて全く聞かず、母は叫ぶように言って、そして涙を零した。
 俯いて、あんたの所為で幸せになれないと何度も繰り返して、母は泣き続けて…………

 ――――――僕は、母を、泣かせるぐらいに苦しめていたのか。

「母さん…、」
 思わず母の方へ、靴を履いている事も忘れて近付こうとすると、彼女はいきなり顔を上げて、涙で濡れた瞳で僕を睨んだ。
 もう睨んだとしか言いようの無いぐらいに、それはとてもきつい視線で……息が、詰まりそうだった。
 後退ると、母が一歩足を進めて来て、あの鈍く光る凶器を僕に向けて来る。
 僕を嫌悪し、存在自体が不必要だと告げているあの瞳は―――子供の頃、色んな人達から向けられていた視線だ。
 ――――そうだ。だから僕は、人が嫌いになった。
 他人の目が……目を視ると必ず悪意が見えたから、僕は視なくなった。
 母の目にすらそれが視えていたから、彼女の顔は見れても、目を視ながら会話なんて出来なかったんだ。
 ………こんな状況で、人を嫌いになった理由を、思い出したくなんて無かった。

「母さん……」
 彼女はずっと、僕が幼い頃から、僕を嫌っていたのだろうか。
 そう思って相手の目を見つめていると、どうしてか泣きそうになって
 心が苦しくて、搾り出すような声で母を呼んだ。
「あんた男でしょうっ、男の癖にどうして…何で男のあんたに御島を取られるのよっ、どうしてよ、どうして男は、あんたの方が美人だと云うのよ……兼原にまで逃げられて……あんた、あんたの所為で幸せになれないじゃないっ」
 悲痛な声で彼女はそう叫んで、その顔は怒りで歪んでいて、いつもの美しい顔は何処にも無かった。
 美しい分、余計に、歪んだ顔は醜くて………母を醜いと思ってしまう自分に不快感を抱いた瞬間、
 彼女は足を進めて来たから、僕は反射的に扉を開けて外へと逃げ出した。
 裸足なのに僕を追って庭へ出て、足が汚れる事なんて気にしていないように
 僕を目掛けて突き進んでいる姿が、恐いと思うよりも……………ひどく、悲しかった。


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