黒鐡…55

「母さんは、僕を……殺したいの?僕は、もう、要らない?」
 立ち止まって問うと、彼女も少し距離を置いた位置で足を止めて
 あの凶器を両手で持ち出して……その手は、相変わらず震えていた。

「――――要らないわよ、あんたなんか」
 鋭い言葉が心に突き刺さって、痛みさえ覚えた。
 だけど僕はそれを誤魔化すように、目を伏せる。

 ―――――大丈夫だ。
 何を言われたって、僕は傷付かない。
 僕が居なくなる事で母が幸せになれるなら、母がそれを望むのなら……………大丈夫だ。
 何処を刺されるのか、どれぐらい痛いのか、あまり時間を掛けずに母が望む通りに僕は―――――。
 そう考えた瞬間、御島の姿が頭に浮かんで、死にたくは無いと強く思った。
 だけど母の事を考えたら、僕は逃げる事なんて出来無い。
 自棄になっているのかも知れないと思って苦笑が浮かんで
 母が凶器を振り上げたのを目にして、僕は諦めるように目を瞑った。

「鈴っ」
 名を呼ばれて、幻聴かと思った瞬間、僕はきつく抱き締められていた。
 息が詰まるぐらいに強く抱き締められて、それが誰なのか理解出来て、ゆっくりと瞼を開ける。
「……み、しまさ…」
「鈴、自棄になるんじゃねぇよ…、」
 いつものように御島は優しい声音で言って、だけど表情は苦痛の色を浮かべていて………
 嫌な予感が過ぎって、恐る恐る顔をずらして、僕を抱き締めている御島の腕を見遣った。

「流石に、痛ぇな…、」  呻くように呟いた御島の言葉と、彼の腕から血が流れ出ているのを目にして、驚愕する。
 眉を顰めている御島は額に汗を浮かばせて、苛立ったように舌打ちを零したものだから、僕は言葉も出せずに硬直した。
 黒いスーツに、あまり目立たない染みがじわじわと広がってゆくのが見えて、
 出血が多いんじゃないかと、それだけは考える事が出来て、僕は母に向けて口を開いた。
「母さん、母さんっ、きゅ…救急車を、病院にっ、救急車を呼んでっ」
 僕は母に向けて叫んだけれど、地面に凶器を落とした彼女は
 口元を両手で抑えて震えているだけで、僕の声なんて耳に入っているのかすら分からない。
「母さんっ、早くしないと御島さんが…っ」
「落ち着け、鈴。そんなもの呼んだら、おまえの母親が捕まるだろう、」
 苦痛の色を浮かべていながらも、低く通る声で静かに言葉を掛けられ、僕ははっとした。
 尤もな言葉に頷こうとするけれど、だったらどうすれば良いのかと考える僕の頭を、御島は優しく撫でてくれる。
 御島の腕に広がる染みがどんどん広がって、血が滴ってゆくのを目にすると
 僕の身体はどうしようも無く震えて、足が凍りついたように動かない。
「鈴…家を出た先に、俺の車が停めてある。逸深が乗っているから、あいつを呼んで来てくれ」
 苦痛なんて感じさせないような柔らかい声音が耳に響くけれど、今の御島はどうしてか――――
 あの圧倒的な存在感を持つ筈の彼は、今は、ひどく儚く見えた。
 唇を噛み締めて頷いて、僕は動かない足を叱咤し、飛び出すように走り出した。
 急いで、必死で走っている筈なのに家の門が遠くて、足が縺れそうになる。
 転ばないようにと気を引き締めて門をくぐり、視界に入った車を目指して、駆けた。

「逸深さん、助けて…、御島さんを助けてっ」
 もう何年も走る事なんてしなかった僕は、走りながらそう叫んだ。
 聞こえた自分の声がひどく泣きそうなものに思えて、視界がぼやける。
「黒鐡さんが、死んでしまう…っ」
 涙が零れて、だけど僕はそれを気にしている余裕も無く、走りながらもう一度叫んだ。

 ―――――――――僕は、あの人を、失いたくなんか無い。



 逸深が院長を務めている病院に運ばれた御島は、腕を十三針縫って、数日ほど大事を取って入院する事になった。
 僕は御島に会う事を少し躊躇ってしまい、病室の前を何度もうろついていると
 中々入れずにいた部屋の扉が開いて、そこから出て来た人に名を呼ばれた。
 それが逸深だと分かると、僕は相手の喉元へ視線を向ける。
 僕が病室に入るのを躊躇っているのが分かったのか、後遺症が残る心配は無いから安心していい、と逸深は声を掛けてくれた。
「あ、あの……母は、」
「黒鐡に怪我をさせた事、よっぽどショックだったんだろうな…かなり消沈していた。刃物は俺が預かって、家に帰させたよ」
「そうですか…色々、すみませんでした」
 頭を下げて謝罪を零すと、逸深は気にしなくていい、と言ってくれる。
 僕は母の事を聞かされても、彼女を心配する気にはもうなれなかった。


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