黒鐡…56
御島に怪我を負わせた事が、母を想う僕の心を不思議なくらい、ひどく冷めさせていたのだ。
「黒鐡だったから、良かったんだ」
「え…?」
聞き取り難いぐらいに小さな声で逸深が呟いて、頭を上げた僕は、無意識に彼の顔へ視線を向けた。
その顔は眉を寄せて怒っているように見えて、僕は直ぐに視線を逸らす。
「君があんなもので刺されたら、危なかった。もっと自分を大事にした方がいい、」
厳しい口調で言葉を掛けられて、僕はもう一度、すみませんと謝罪を口にした。
僕はあの時、母が幸せになれるならそれでも良いと自棄になっていたから、自分の身を大事にしようなんて思えなかった。
「あまり煩く云うと、黒鐡に怒られそうだな」
そう云ってから逸深は、僕を促すようにして病室のドアを開けてくれる。
すみませんと三度目の謝罪を口にして、僕は御島の居る個室へと足を運んだ。
広い室内はソファーや冷蔵庫なんかも有って、僕が今まで入院した事のある病室とは全く造りも違っていた。
「御島さん……あの、ごめんなさい、」
ベッドの上に居た御島を目にするなり、少し距離が有る所で足を止めて、僕は謝罪を口にした。
本来なら僕が刺されるべきだった筈なのに、御島が負わなくてもいい怪我を負った事が、ひどく申し訳なく思えた。
すると御島は何も云わずに、ベッドの上で軽く手招きして来たものだから、僕は重い足取りでベッド脇へと近付く。
「鈴、おまえが死んだら……俺は狂っちまう、」
上体だけを起こしていた御島は、僕の頬に左手を当てて、不意にそんな言葉を口にした。
掛けられた言葉に何度か瞬きを繰り返して、込み上げて来そうなものを抑え込むように僕は目を伏せた。
「……御島さん、どうして…あの時、僕が自棄になっているって分かったんですか、」
「おまえが刺されたら、あの女が捕まるだろう。あの女の事を想っているおまえなら、そう考えて説得するか逃げるか、兎に角大人しく刺されるような真似はしない筈だぜ」
――――どうして。
どうして御島は、そこまで僕の事を理解ってくれるんだろう。
抑え込んだものがまた再び込み上げて来て、思わず目を伏せると、御島はあの優しい手付きで頭を撫でてくれた。
その感触に胸が熱くなって、云いたい事は吐けばいいと、以前御島が口にしてくれた言葉が不意に頭に浮かぶ。
「……僕、僕が……」
震えた声が零れ落ちたけれど、僕は言葉を続かせる事は出来なかった。
他人に迷惑を掛けて来た僕だ。生きるだけで、迷惑な存在だ。
そんな僕が、云いたい事を吐いたりなんかしたら、罰当たりなんじゃないだろうか。
何も云えずに黙り込んでいると、御島は僕の身体を片腕で抱いて、易々とベッド上へあがらせて膝の上へ乗せてくれた。
「鈴、此処には俺とおまえだけだ。何を云っても、おまえを責める奴は此処には居ないんだぜ」
あやすように背を撫でてくれる感触が心地好くて、僕の胸中を理解しているような御島の言葉に
僕は少しだけ、泣きそうになった。
「僕がいると……幸せに、……僕がいると幸せになれないと、母さんが云って…」
抑えられずに言葉を放ったけれど、僕は泣かない。
僕の所為で母が苦労を背負って来た事は自覚していたし、あまり母に好かれてはいないって事も分かっていた。
だから、泣いたりする事なんてしないし、傷付くことなんて無い。
ただ――――胸が、ひどく重くて、苦しかった。
「鈴…幸せになれない事を、他人の所為にするのは違うだろう」
御島が静かに、優しい声音でそう云ってくれた瞬間、僕は目を見開いた。
徐々に視界がぼやけて、喉奥が締め付けるように痛んで、抑え切れずに涙が零れる。
「…そう、そうだよ…それを、それだけは、僕、僕の所為に……して欲しく、なかった…」
零れた涙を手で拭いながら言葉を吐くと、御島は怪我をしている方の手を動かして、頬を伝う雫を指で拭ってくれた。
その事にはっとして、僕は慌てて顔を後ろへ引く。
「御島さん、動かしたら…傷が、」
「構うかよ。そんな事より、おまえの方が大事だ。」
御島はそう云うと、僕の頭を優しい手付きで撫でてくれた。
冷たい筈の彼の手が、温かく感じるのはどうしてだろうと考えて、僕はゆっくりとかぶりを振る。
僕からして見れば御島の傷の方が大事だと、だから安静にしてくださいと伝える為に
口を開き掛けた瞬間、彼が顔を近付けて唇を重ねて来た。
驚く間も無く、少し冷たいその感触は直ぐに離れて、御島は口元を緩めて笑った。
「云いたい事は全部吐けばいい。俺はおまえの言葉になら、幾らでも耳を貸してやるぜ」
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