黒鐡…63
「相馬君、話は後だ。今は此処を出よう、当主様が来る前に―――」
「俺が、どうかしたの?逸深」
拾った本を僕に手渡そうとしていた逸深の動きが、綺麗な声が響いたと同時に止まった。
暫く耳の奥に残るような、響きの良い少し高めのその声に引かれるように、僕は無意識に声のした方へと顔を向けた。
男と呼ぶべきか躊躇いそうなぐらいに、綺麗な顔立ちをした人が目に映って、その人は御島の方へ視線を向けている。
その人の背後には、御島よりは低いだろうけれど、スーツを着た長身の男が立っていた。
涼しげな表情を浮かべているその男は、あの綺麗な人だけに視線を注いでいる。
「黒鐡が入院している事を知って、急いで来たんだ。大丈夫なの、」
「…ええ。ほんの、かすり傷程度ですから」
ベッドの端に腰を降ろしていた御島は慇懃に言葉を返して、綺麗な人に向けて微笑み掛けた。
魅力的、と呼べる微笑だけれど、物腰が全く柔らかじゃなくて、肌を刺すような冷たささえ感じる。
その事に少なからず安堵していると、一瞬だけ、あの綺麗な人と目が合った。
「逸深、そいつ…誰、」
慌てて目を逸らして少しだけ俯くと、不快感を露わにしたような、棘の有る声音が響く。
先ほど耳にした響きの良い声とは打って変わって、それは思わず震えてしまいそうな程に、冷たかった。
「その人は、逸深の新しい恋人らしいですよ。」
素っ気無い口調で答えたのは御島で、その言葉に、思考が上手く付いてゆかない。
御島はどうして……そんな事を云うんだろう。
「黒鐡、言うなよ。相馬君の事は本気だから、あまり人に広めたく無いって云っただろう、」
「へぇ。逸深が本気になるなんて、珍しい。綺麗な顔しているけど、俺程じゃないし…何処に魅力が有るのさ、こんなガキに」
ガキ、と云う言葉がひどく刺々しくて、僕は俯いたまま不快感に眉を寄せた。
御島の不可解な言動も、唐突に現れた名前も知らないこの人の事も
逸深に触れられた事も何もかもが不快で、苛立ちや吐き気が込み上げて来る。
――――だけど。
「まあ良いや。ねぇ黒鐡、久し振りにキスしてよ」
信じ難い唐突なその言葉に、何もかもが、一気に冷えていった。
咄嗟に顔を上げると、その人はいつの間にか御島の膝の上に腰を下ろしていて、御島の頬に手を添えている。
「当主様、貴方には梛鑽が居るじゃないですか」
「あいつは俺の恋人じゃない、奴隷だ。…そうだろう、ナキリ」
可笑しそうにくすくすと笑いながら、彼は長身の男へと声を掛けた。
男は少し頭を下げただけで、何も言葉を返そうとしない。
「だから黒鐡、遠慮しなくていいよ。…早くしろよ、お前は俺の物なんだからさ、」
御島の首に両腕を絡めて、その人は御島に向けて顔を少し近付けた。
その光景に凍りついて、瞠目したまま目を逸らせずにいた僕へ
あの綺麗な人は視線だけを向けて、どうしてか可笑しそうに口元を緩めた。
逸深と違ってそれはとても厭な笑みで、僕が更に眉を寄せると相手は御島の方へ視線を戻し、早く…と急かす。
「仕方有りませんね。当主様、目を閉じて下さい」
低く、何の感情も籠もっていないような声が響いて、御島はその人の顎を指で掴んで固定した。
ゆっくりと顔を近付けてゆく御島の姿を見ていられなくて、胸が締め付けるように苦しくて、僕は俯いてきつく目を瞑る。
―――――止めて欲しいとはっきり口に出来無いのは、僕と御島が恋人同士でも何でも無いからだ。
―――――僕が二人の行為を阻止したとして、御島に、おまえには関係無いだろうと云われるのが恐いからだ。
今直ぐこの場から逃げ去りたいのに足が動かなくて、僕は唇を噛み締めた。
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