黒鐡…64

「……黒鐡、何?今の、」
「何って、キスですよ」
「ふざけるなよ。誰が頬にしろって言った?キスは普通、唇だろ」
 耳に入って来た会話に僕はそっと目を開けたけれど、顔は中々上げられずに居た。
「申し訳有りません、当主様。最近、男より女の方が好ましいんです。やはり男の唇を奪うより、女の方が全然好い」
「嗜好が変わったのか、」
「ええ。男とセックスするのも、最近は考えただけで吐き気がします」
 ゆっくりと顔を上げた僕は、臆面無く言葉を放った御島へ視線を注いだ。
 男と……と云う事は、昨夜僕に触れている間、吐き気を堪えていたのだろうか。
 そんな様子なんて全く感じなかったし、つい先ほどだって御島は僕を抱きたくて堪らない、と口にしたのに。
 御島のどの言葉を信じれば良いのか、分からなくなっていると
 明らかに不機嫌そうな表情を浮かべたあの人が、御島の膝の上から降りたのが目に映った。

「……俺はそこらの女より、美人だ。」
「仰る通り、当主様は美しい。けれど、男の醜いアレが付いていては…」
 云い掛けた御島の声は、頬を思い切り叩かれた音によって、掻き消された。
 頬を叩かれた御島は怒り出す気配も無く、あの鋭い双眸を少し細めて、目の前の相手を眺める。
「口の利き方に気を付けろよ、黒鐡。お前は俺の物なんだ…物が、俺に無礼な口を利くなっ」
 怒りからか、肩を震わせているその人に向けて、御島はうっすらと微笑みながら、申し訳有りませんと頭を下げた。
 けれど口調も態度も、何もかもが無礼なものに思えて、反省している様子なんて皆無に等しい。
 呆気に取られていると、逸深が急に僕の腕を引いた。

「当主様、俺達はそろそろ失礼させて頂きます。彼に、あまり刺激的な光景は見せたく有りませんから」
「随分大切にしているんだな、珍しい」
 あの人は吐き捨てるように言葉を返したけれど、逸深はその言葉に軽く頭を下げ
  本をソファーの上へ置いてから強い力で腕を引いて、僕を病室の外へと連れ出した。
 触れられる事への嫌悪感はそれほど強く無かったけれど、引っ張られるようにして強引に歩かされるのは、不快だった。
 病室から大分離れた、自販機やソファーが並んでいる休憩室まで進んで、立ち止まった逸深はようやく腕を離してくれた。
「は、逸深さん…あの、一体…何がどうなって、」
「ごめんな、相馬君。当主様、黒鐡をひどく気に入っているから……黒鐡が君に惚れているんだと知ったら、君を傷付けかねないからさ」
 逸深に促されてソファーに座らされ、自販機に金を入れた彼は少し困ったように説明してくれた。
「相馬君、何が飲みたい?珈琲より、ジュースかな?お茶も有るよ」
「い、いえ…何も要りません、」
「不快な想いをさせたお詫びに、奢らせてくれよ。」
 頼み込むような口調に強く拒否出来ず、僕はまるで逸深のペースに乗せられるように、珈琲を頼んだ。
 温かい方が良いなとぼんやり考えていたら、差し出されたカップの中の珈琲は、望み通りに湯気を立てていた。
「何となく、相馬君は温かい方が好きそうだと思ってね」
 そう云って笑った逸深に僕はどうしてか落ち着かない気持ちになって、素っ気無く礼の言葉を返してカップに口を付けた。
「御島さんの事、俺の物って…言ってましたよね、」
 珈琲の温かさに息を吐いて、思い出した言葉を口にすると、逸深は近くのソファーへと腰を降ろした。
「当主様、昔はああじゃ無かったんだ。三年前に事故に遭って以来、少し変わってしまってね。その上、去年に前の当主様…つまり、父親を亡くしてから余計に変わって……今じゃ、六堂嶋の人間は全て自分の物だと云う考えまで持つようになった、」
 他人を物扱いすると云うのは、僕はあまり好きじゃない。


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