黒鐡…66

 目の前のテーブルの上へとカップを置いて、眉を寄せながら考え込むと、廊下側から足音が響いた。
 逸深が戻って来たのかと考えて、咄嗟に視線を移した僕の目に見えたのは―――――
 あの、ひどく綺麗な顔をした、六堂嶋家の当主の姿だった。



「ねぇ、オマエ…名前は何て云うんだ?」
 その人は休憩室に足を進めて来るなり、開口一番に尋ねて来た。
 彼の背後には、あの長身の男が、出入り口を塞ぐように立っている。
 まるで僕を此処から逃がすまいとしているような行動に思えて、少しばかり不快感を感じた。
「……相馬、鈴です」
 視線を落としながら短く答えると、彼は僕の真向かいのソファーへと腰を降ろして、可笑しそうに笑い出した。
「すず?女みたいな名前だな。オマエ、女みたいに女々しかったりするのか?」
 棘の有る言葉に不快感はより一層強まって、僕は何も答えず、あからさまに顔を反らす。
 反らした先で自販機をじっと見つめると、相手は気に食わないと云ったように、軽く鼻を鳴らした。
「オマエ、歳は幾つ?」
「…十九です」
 掛けられた問いに、自販機を見つめたまま短く答えると、相手は馬鹿にするように嗤う。
「俺は二十三だから、俺の方が年上だな。」
「だから、何だって云うんです、」
「歳が近い方が、より一層相手の事を分かってやれる。黒鐡の事を理解出来るのは、俺の方だって事。」
 鋭さを増した口調に自然と眉を寄せて、僕は相手の方へと顔を向け直した。
 だが視線は相手の顔へ向ける事はせずに、テーブルの上に置いたカップへと目がゆく。
 どうしてかそれは相手の近くに有って、僕はそれを疑問に思いつつも
 カップを再び手にして口に付け、少し冷めてしまった珈琲を一気に飲み干した。
「歳で、相手を理解出来るんですか。それなら…貴方より逸深さんの方が、黒鐡さんをもっと理解出来るって事ですね」
「……オマエ、意外と負けん気が強いんだな。でも俺にあまり生意気な口を利かない方がいい。その綺麗な顔に熱湯を浴びせて、人目に触れる事の出来無い面にしてやる事なんて、簡単だからな」
 恐ろしい事を平気で口にされたものだから、先程の逸深の言葉が、不意に頭を過ぎった。

 ―――――黒鐡と関係を持った相手を、今まで色んな手を使って消して行った。
 ―――――殺され掛けた人も、居たよ。
 頭の中でその言葉が響いた瞬間、僕は慌てて立ち上がって、その場から離れようとした。
 けれど相手は素早く、僕の腕を強く掴んで来て、その唐突な行動にひどく驚いた。
 その手を振り払おうとすると、彼は反対の手をゆっくりと動かして、自分の首筋を指し示した。
「それ、黒鐡に付けられたんだろう?逸深は、痕を付けるような事は好まないし。」
 痕、と聞いて僕ははっとして、慌てて首元を手で押さえた。
 もしかしたら反対側だったのかも知れないけれど、僕は他人に触られている強い不快感と
 嫌悪感に苛まれていて、どちら側に付けられたのかを思い出せる余裕なんて無かった。

 ………出来る事なら、今直ぐにでも、この場から立ち去ってしまいたい。
 そう考えると、僕は拍車がかかったように相手の腕を思い切り振り払った。
 あっさりとその手が離れた瞬間、視界がぐらりと揺らいで、僕は咄嗟に自分の頭を片手で抑える。
 どうしてか眠気を催して、それは急速に強まって、僕は耐えるように何度か瞬きを繰り返した。
 だけど眠気は治まらず、更に強まるばかりで――――。
 倒れてしまいそうだと思って、身体の力が抜けた途端、僕は誰かの腕に支えられていた。
 意識はひどく曖昧で、瞼を閉じた僕の耳に、せせら笑う声が聞こえる。
「オマエ、馬鹿な奴だな。他人の近くに有る飲み物なんて口にするなよ。警戒心の欠片も無い奴だ……おやすみ、相馬鈴」
 ひどく綺麗な声が遠くの方で響いて、異常な程の強い眠気に耐えられずに、僕は意識を手放した。


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