黒鐡…67
「…さん、相馬さん…目を覚まして下さい、」
遠くから聞こえるような呼び掛けに、僕はうっすらと瞼を開けた。
この声の主は誰だろうかと考えるけれど、頭がぼんやりして、上手く考えられない。
それにひどく眠いし、もう少し寝ていたいと思って、開けた瞼を閉じようとする。
「相馬さん、当主様がお待ちです。目を覚まして下さい」
少し大きめの声が聞こえて、僕はようやく徐々に目を覚まし始めた。
ちゃんと目を覚ます為に何度か瞬きを繰り返して、少しだけかぶりを振る。
そうする事で、ようやく意識がはっきりとした僕は、病院でも無く御島の家でも無い見慣れない天井を目にして、驚いて飛び起きた。
傍らにはスーツを着た長身の男が、姿勢良く正座をしながら座っていて、その事にもひどく驚いた。
どうしてこんな所に居るのかとか、此処は何処なのかとか尋ねたかったけれど、他人と言葉を多く交わす事なんてしたくない。
「相馬さん、当主様が大広間でお待ちです。立てますか、」
尋ねず、自分で判断する為に室内へ視線を走らせた僕は、耳に入って来た言葉に少しだけ震えた。
穏やかさなんて全く含んでいないような厳し過ぎる声音が、あの独特の雰囲気を持つ御島とは、違った恐さを感じる。
何も言葉を返せずにいると、彼はゆっくりと立ち上がって、部屋の襖を開けた。
当主様、と云うのはやはり――――六堂嶋家の、当主の事だろう。
何がどうなっているのか分からず、不安に苛まれながら起き上がると
拒否権を与えないような強い口調で、男はついて来てくださいと、僕に声を掛けた。
男に案内された大広間はあまりにも広く壮観で、畳六十畳は有った僕の家の大広間よりも、数倍は有る。
座るようにと促された場所の、少し離れた両脇に何人もの人が並ぶように座っていて、部屋の広さよりもその事に圧倒された。
正面の上座には紺色の着物を纏っている人が、座っている。
「お早う、相馬鈴。睡眠薬のお陰で、ぐっすり眠れただろう。良い夢は見れた?」
響きの良い声を掛けられて、上座に座っている人が六堂嶋家の当主だと云う事を
僕はようやく理解出来て、くすくすと笑う相手に愕然とした。
どうして、睡眠薬なんか飲ませてまで、僕をこんな所に連れて来たのだろう。
………僕は、どれぐらい寝ていたのだろう。御島は僕を心配してくれているだろうか。
色々思案しながら、僕は周囲に視線だけを素早く走らせた。
両脇に座っている人達の背後には障子戸があって、その向こう側からは雨音らしき音が聞こえた。
病院に居た時は降っていなかったのに、一体どれぐらいの時間が経っているのだろう。
それにこの、周りに居る人達は何なのだろう…と訝った矢先に、当主の笑い声が耳に響いた。
「恐い?周りに居る奴らはみんな、オマエより背が高いもんな。そいつらは、みんな本家の人間だよ。オマエの為に集めたんだ」
「…何故、そんな事を、」
周囲から注がれる視線にひどく身体が緊張して、胃がせり上がって来るような感覚に悩まされる。
搾り出すような声で問うと、相手は何が可笑しいのか、愉しそうに笑った。
「何故?そんなの、オマエが有害な人間だからに決まっているだろう、」
「有害…、」
棘の有る言葉を掛けられて、僕は微かに俯く。
周囲の人間が声を潜めて、何かを囁き合って、僕に聞こえるぐらいの声で言葉を交わしている人も居た。
――――――あの顔で、黒鐡様を誑かしたんだとさ。身の程知らずも良い所だな。
…………男の癖に、黒鐡様を誑かそうとするなんて気色が悪い奴だ。
周囲からはっきりと感じられる侮蔑に、胸がむかむかして、口の中が渇いてゆく。
どうしてこんな目に遭うのかと考えた瞬間、逸深の言葉が頭を過ぎって、そう云う事かと納得した。
御島の傍に居る僕は、この人達にとって、ひどく邪魔な存在なんだ。
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