黒鐡…69

「黒鐡さんのお傍に、居たいんです」
 震える事も無く、明瞭な声が自分の唇から零れて、それに励まされるように、僕は目線を上げた。
 当主の―――あの、悪意があまりにもハッキリと浮かんでいる瞳を
 怯みそうなのを何とか堪えながら、今この瞬間、僕は真っ向から見据えた。

「何、だって…?」
 ゆっくりと目を細めた相手は、刺すような冷たい声を放って、背筋が凍りつきそうな程の冷笑を口元に浮かべる。
 芯から冷えるようなそれに目を逸らしてしまいたくなったけれど、僕はがちがちと震える歯を強く噛み合わせ、恐怖に負けそうな自分を心中で何度も叱咤した。
 だけど次の瞬間、室内に響いた高らかな笑い声に、僕は目を見開く。
 当主が俯いて頭を抱え、肩を揺らしながら可笑しそうに笑っていて、どうしたのかと眉を寄せた瞬間
 相手は笑うのを止めて少し呻いた後、直ぐに顔を上げて立ち上がり、僕の元へ勢い良く近付いて来た。
 その迫力に圧倒されて、微動だに出来なかった僕の襟首を掴んで、彼は顔を近付ける。

「……オマエ、オマエなんかが、黒鐡の傍に居たいだと?ふざけるなッ」
 鋭い声が上がった瞬間鈍い音が響いて、それと同時に、強い衝撃が頬を走った。
 当主の拳が振り上がって、殴られたんだと理解した瞬間、今度は腹部を殴られて痛みに呻く。
 人に思い切り殴られたことなんて産まれて初めてだった僕は、腹を押さえて眉根を寄せながら
 殴られると云う事は、こんなにも痛いのかと驚いていた。
 痛みで動けずにいる僕の襟首を彼は掴んだまま、今度は強い力で引っ張って、まるで僕を引き摺るようにして障子の方へ向かう。
 座っていた大人達は道を開け、その間を当主は僕を引き摺りながら進んで、障子を開けて縁側へ出た。
 縁側の硝子戸を開けた彼は、雨が降っている庭に向けて、思い切り僕を突き飛ばした。
 無様に地面に倒れ込んだ僕は、自分の身体を濡らしてゆく雨と泥の感触に、ほんの少し苛立ちを覚える。

「黒鐡は才能が有るから、六堂嶋にとって大事な存在なんだ。オマエと違って、多くの人から必要とされているんだよ……それを、それをオマエはっ」
「当主様、落ち着いて下さい。怒ると、また発作が起きます」
「離せ、ナキリッ」
 縁側で身を乗り出した当主を、長身の男が後ろから羽交い絞めにするような形で止めている。
 その光景を僕はまるで、遠くの出来事のように眺めていた。
 雨に濡れるだなんてしたら、また熱を出してしまう……と、僕は上体だけをゆっくりと起こして
 降り続く雨に打たれながら、まるで逃避するようにそんな事を考えた。

「黒鐡の傍に居たいなんて、二度と叩けないようにしてやるッ、オマエなんか誰からも必要とされない癖に…オマエなんか要らないんだよっ」
 突き刺さるような言葉は尤もな言葉で……僕は傷付く事も無ければ、泣く事も否定する事もしない。
 ――――けれど。

「黒鐡は死ぬまで、俺の物だっ」
 けれどその言葉は肯定出来なくて、僕は殴られた腹部から手を離して、ゆっくりとかぶりを振った。
「違う。黒鐡さんは、物じゃない」
 冷たい鉄の塊でも無く、所有されるべき物でも無い、あの人は―――――
 温かくて、僕にとって必要な、かけがえの無い存在だ。

「……ッ、誰か殺せっ、こいつを今直ぐ、俺の前で殺せッ」
 僕の言葉が怒りを更に煽ったのか、当主は綺麗な顔を歪めて怒鳴り声を上げた。
 僕は、御島に想いを伝えられないままで、殺されるのだろうか。
 それだけは嫌だと考えて、逃げなければと思った瞬間………
「六堂嶋の当主様とあろう者が、見苦しいですよ。」
 聞き覚えの有る冷たい声が響いて、部屋の奥の襖がゆっくりと開かれた。
 黒いスーツを着込んだ御島が部屋に入って来て、縁無しの眼鏡を掛けているその姿は、どうしてかひどく冷たく感じた。

「黒鐡、何をしに来た…邪魔するつもりかっ」
 羽交い絞めにされていた当主はいつのまにか解放されていて、怒り狂った表情で御島を見上げて、煩い声を上げる。
 縁側まで近付いた御島は僕の方へ視線を向けて、一瞬だけ眉を顰めた。
 はっとして、殴られた頬に手をそっと当てると、そこはとても熱くなっていて鈍い痛みが走る。
 痛みに片目を瞑った途端、御島は苦々しげに笑って、直ぐに僕から視線を逸らした。


次頁からは暴力描写が有ります。
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