黒鐡…70
そして、本当にゆっくりとした動きで、当主の方へと目を向けた。
ズボンのポケットに入れていた片手を出して、御島はその手で、スーツの上着の釦を外す。
ベルトに差した、鈍く光る黒い何かを彼が引き抜いた瞬間―――――。
「当主様っ」
あの梛鑽と呼ばれていた男が叫んで、近くに居た当主を庇うように抱き、床に押し倒した。
くぐもったような音が微かに聞こえて、御島はそれを構えたままゆっくりと冷たい眼差しを、床に転がった二人へ向ける。
そこで僕はようやく、御島が手にしているものは銃だと云う事に気付いた。
「黒鐡…お前、お前…嘘だろう、俺を撃とうとしたのか…」
僕が気付くのと、当主の震えた声が響いたのはほぼ同時だった。
男の素早い行動で銃弾は誰の身体にも当たら無かったけれど、当主は目を見開き、男に礼を口にする様子も無く御島だけを見つめている。
御島は何も答えずに鼻で嗤って、構えていた銃を下ろしてから、僕の方へ顔を向けた。
眼鏡の奥の双眸は相変わらず冷たくて、僕は微かに震えてしまう。
御島が足を一歩進めたのと、当主が男の身体の下から退いて部屋の方へ走り出したのは、ほぼ同時の出来事だった。
当主は上座にあった刀を握って、慣れた動きで鞘からそれを抜いた。
「黒鐡っ、そいつに近付くなッ……近付けば、殺すぞっ」
縁側から降りようとしていた御島の動きが止まって、彼はゆっくりと当主の方へ振り向いた。
鋭く光る、鋭利な凶器を目にしても、御島は怯む様子なんて全く見せなかった。
「……自分一人では何も出来無いガキかと思っていましたが、少しは成長なさったようですね」
それ所かせせら笑って、当主を煽るような、そんな言葉まで口にした。
当主は怒りからか顔を赤く染めて歯を咬み、御島をきつい眼差しで睨みつける。
だが、御島と当主の間に、あの――――梛鑽が、立ちはだかった。
「当主様、お止め下さい。当主の貴方が、一族の人間を傷付けてどうするんです、」
宥めるような穏やかな声音で言葉を掛けて、その刀を下ろして下さいと、男は当主に向けて手を伸ばそうとする。
「黙れナキリッ…お前は、お前は俺の奴隷なんだから、黙って見てろ…!俺に、俺に口出しするなっ」
けれど当主は叫ぶようにそう云って、一度刀を振り下ろした。
男は斬られまいとするように一歩下がって、眉を寄せて暫く当主を見据えていたけれど、やがて諦めたように身体を引いて二人の間から離れた。
「その奴隷に、親父に貰えなかった愛を求めているんですか。……滑稽ですね、」
御島は、嗤った。嗤って、冷たい口調で、吐き捨てるように云った。
思い切り目を見開いた当主は叫びにも似た声を上げて駆け出し、御島に向けて斬りかかった。
あんな凶器、母の握っていた包丁とは訳が違うのだ。
あんなものに斬られたら御島でも危険じゃないかと考えて、僕はこの距離では何が出来る訳でも無いと云うのに、慌てて立ち上がろうとした。
だけど殴られた腹部が鈍い痛みを訴えて、素早く立ち上がる事も出来ずに居た僕の目に――――
振り下ろされたそれを寸前で避けた、御島の姿が映った。
避けた彼は相手の、刀を手にしている方の腕を迷い無く、捻るように掴み上げる。
あっという間の出来事に僕は動くことも忘れて、ただずっと御島に視線を注いでいた。
「黒鐡…は、離せ…ッ」
「いけませんね、当主様。抜刀は上手くなったが、振りがまだ甘い。やはり素人が手にすれば、折角の刀もただの飾りですね」
御島は冷笑を浮かべて、言葉を云い終わるか終わらないかの内に
間近の硝子戸へと、握っていたその手を容赦なく押し付けるようにして叩きつけた。
硝子の割れる音と当主の悲鳴が響いて、彼の手に握られていた刀が、庭の地面へと転がり落ちる。
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