黒鐡…71
どれだけ強い力で叩き付ければ、あの決して薄いとは思えない硝子戸が割れるのだろうかと、僕は強い恐怖で身体を凍りつかせた。
男や六堂嶋の人間が当主を呼んで………その時になって僕は、当主の名を誰も口にしていない事に気付いた。
あの、当主の奴隷だと云う男ですら、彼の事を当主様としか呼んでいない。
それに六堂嶋の人間は当主を呼ぶだけで、男以外誰一人として――――彼に駆け寄る人は、居なかった。
「くそ、黒鐡…気が、触れたのか……お前は、俺の物なのに…、」
硝子の破片が幾つか刺さって、流血している手を力なく下ろしながら、彼は苦痛に呻く。
御島は興味など無いと云ったように、床に膝を付いた当主にはもう見向きもせず
砕けて散らばっている硝子の破片を靴で踏み付けて、縁側から庭に降りた。
彼が土足だと云う事に僕はようやく気付いて、本当に彼は無茶苦茶な神経をしていると、僕は雨に打たれながらぼんやりと考える。
彼も雨で濡れてしまうと思いながらも、近付いて来る御島の姿に、ひどく安堵感が沸いた。
だけど彼は、左手に持っていた銃を唐突に、僕に向けて構えて来て…………
「鈴は俺の獲物ですから、他の誰にも殺らせる気は有りませんよ」
御島の言葉に、その行動に―――――全身が、凍りついた。
彼の荒々しい筈の足音は全く聞こえず、ゆっくりと僕の元へ近付いて来る。
「は、はは…そうか黒鐡…何だお前、最初から…そのつもりだったのか。……なら早く殺れ、直ぐにでもそのガキを、殺せ…ッ」
苦痛の表情を浮かべながら、手の応急処置を男に任せている当主が、嗤う。
僕は、目の前に置かれた現状に、目を瞑ってしまいたかった。
「鈴、濡れ鼠だな…風邪引いちまうぜ。……殴られたのか?」
御島は僕の前まで近付くと、あの冷たい銃口を向けながら、そんな言葉を掛けて来た。
眼鏡の奥の眼差しは、恐いぐらいに冷たくて、鋭い。
「……騙して、いたんですか、」
「人聞きの悪い事を言うんじゃねぇよ。俺は云った筈だ……過去に、おまえを殺そうとした事が有る、ってな」
問いには答えずに弱々しい声で尋ねると、御島は口角をうっすらと上げて、冷ややかな声音を放った。
それを聞いて愕然とした僕は、全身の力が抜けてしまいそうになって、何とかそれを堪える。
そうだ。確かに御島はそう云って―――けれど、それは過去の事だからと僕は気にしなかったのだ。
御島は一言も、今はそんな事をするつもりは無いなどと、言わなかったと云うのに。
………僕は、何て馬鹿なんだろうか。
どうして、もっと早く、気付かなかったんだろう。
――――――僕は人の言動に傷つくことなんて、絶対に無かった。
だけどもう、誤魔化しようがないぐらいに、認めざる負えないほどに……僕の心は今、何よりも傷付いている。
もっと早く気付いていれば、こんなにも傷付くことは、無かったんだろうか。
……………胸が、心が、身体中が、何もかもがひどく痛くて、苦しい。
「鈴……どうして自分が泣いているのか、分かるか、」
涙が頬を伝って、下唇を噛み締めていた僕の耳に、御島の優しい声色が響く。
凶器を手にしている男の言葉とは思えないほど、それはひどく穏やかで、その優しさに縋ってしまいそうなのを堪えて僕は小さく頷いた。
泣いている理由なんて、痛い程、分かる。
「御島さんに、裏切られることが……こ、殺されることが………辛くて、悲しい…」
「どうして殺されたくないと思う。ガキの頃は、殺してもいいと口にしただろう、」
僕はその事を覚えていないし、思い出す事も出来無い。
ただ、生きる事に執着はしていなかったんだろうと、それだけは何となく理解出来た。
「………あの頃と今とじゃ、違う…から、」
弱々しい自分の声が響くと、御島は向けていた銃口をゆっくりと下ろした。
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