黒鐡…75
「当主様……次はありませんよ。俺から奪おうとするのなら、鈴に何かしようものなら………」
力無く地面に崩れ落ちた当主へ、冷淡な眼差しが向けられる。
殴られた箇所を押さえながら、当主は苦痛に歪んだ表情で御島を見上げた。
「――――貴方の大切なものを、消しますよ。」
凍り付いてしまいそうな程、静かで鋭い声が響いて、御島は凄絶な笑みを浮かべた。
あまりの迫力に呼吸が上手く出来ず、息苦しさを覚えた僕の身体は、がくがくと震えていた。
当主は地面に倒れている梛鑽へ一度視線を向け、続いて悔しげに唇を噛み締める。
眉を顰め、肩を震わせているその姿から、彼の大切なものとは梛鑽の事なんだと理解出来た。
「勝手な事をしたら…六堂嶋の人間が、黙って…いないぞ、」
「六堂嶋の人間は、当主の貴方より妾腹の俺に懐いている。当主の癖に、貴方は何よりも孤独だ……
その濁った眼で、しっかりと見たらどうです。貴方がこんな目に遭っても、駆け付ける人間は一人も居ない様を」
御島はあの笑みを嘲笑に変えて、ゆっくりとした動きで、黒い鉄の塊をベルトに差して収めた。
言われるまま、当主は視線だけを縁側の方へ向けたものだから、
僕も釣られるように目を向けたけれど、御島の云う通り、此方に駆けつけて来る人は居ない。
六堂嶋の人間達は、ただ此方を見ているだけで一歩も動こうとはせず
困惑や恐怖の色を浮かべて、戸惑っている様子で………
御島に逆らってまで、当主を助けようとする人は、その中には誰一人居なかった。
「くそ…っちくしょう…、……畜生…ッ!」
まるで打ちひしがれたように俯き、片手で地面を殴りつけて、当主は悔しげな声を響かせた。
孤独なその姿がひどく悲しく見えて、思わず彼から視線を逸らした先に、此方へ近付いて来る御島の姿が見えた。
「鈴、帰るぞ。本当に風邪引いちまう、」
掛けられた言葉はあまりにも優しく、温かい声音で……身体が、熱くなった。
――――――帰れる。
御島と、また一緒に暮らせるのだろうか。
僕は、彼と一緒に生きても、いいのだろうか。
そう考えると、込み上げて来るものが抑えられず、僕は少しだけ涙を零した。
僕は御島の前では本当に、泣いてばかりだ。
以前の僕は、泣く事を忘れたみたいに、涙なんて全く零さなかったのに。
御島を好きになってから僕は本当に、弱くなった。
泣いてばかりの今の自分が、ひどく格好悪いと思ったけれど、でも………。
でも、感情を表に出せるようになった事は、悪く無い気がした。
目を伏せると御島はまるで、あやすように僕を抱き寄せて、額へと口付けた。
雨に濡れているから、泣いている事なんて分からないだろうと思っていた僕は、彼のその行動に少し驚く。
そろそろと視線を上げると、眉を顰めて怒っているようにも見える御島と、眼が合う。
「悪かった、鈴。恐い想いをさせちまったな、……痛むか、」
ひどく優しい声が、耳の奥に響く。
殴られた頬に視線を感じて咄嗟にかぶりを振ると、御島は急に僕を軽々と抱き上げて、肩に担ぎ出した。
彼が足を踏み出した瞬間、とても弱々しい声で、当主が御島の名を呼んだ。
「黒鐡、お前…お前なんかが、人殺しで鉄の塊のお前なんかが、外で幸せになれる訳が無い…俺の傍に居ればずっと幸せでいられる。…ッ…それなのに…それなのに何でそんな、ガキなんか…、どうして俺を裏切るんだよ…」
嗚咽混じりの声が上がって、今の彼には当主としての姿なんて何処にも無くて………
まるで小さな子供のように思えて、僕の耳には、行かないで欲しいと懇願しているように聞こえた。
御島は一度足を止めたけれど、振り返ることはせず、喉奥で静かな笑い声を立てる。
「俺は自分が幸せになりたい訳じゃねぇ。鈴を、幸せにしてやりたいだけだ…」
慇懃でも無い、低く通る声で明瞭に紡がれた言葉に、心底安堵感が湧く。
顔を上げた当主は目を見開いて、両手を、あの怪我をしている方の手も一緒に動かして、自分の顔を覆い隠した。
泣き叫ぶような声が上がって僕は驚愕したけれど、御島は構わずに足を進め出した。
その場から離れて庭を進み、当主の姿が見えなくなると、僕は張り詰めていたものが
一気に解けてゆくのを感じて―――――拙いと思う間も無く、糸が切れたように意識を失った。
「……あの料亭を指定したのは、相馬君を母親に会わせる為だったんだろう、」
「察しがいいな。あの料亭に連れて行けば、あいつは俺に、母親に会わせてくれるよう頼んで来ると思った。鈴の事だ、一人で行く事も軽く予想していたんだが…本当に行っちまうとはな。鈴は本当に、俺の思い通りにならねぇ」
ぼんやりとした意識の中で、誰かの話し声が遠くの方で聞こえて、僕はうっすらと目を開けた。
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